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記録/報告

2007年 2008年 2009年 2010年
KIASユニット1第二回イラン政治研究会
(2010年3月23日 於京都大学)

・発表1 斎藤正道(東京外国語大学非常勤研究員)
「Cyrus Schayegh, Who is Knowledgeable is Strong: Science, Class and the Formation of Modern Iranian Society, 1900-1950(Univ. of California Press, 2009)から近代イランを考える」
・発表2 黒田賢治(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程)
「ハーメネイー体制下における法学界のポリティクス――法学者組織と知的権力構造を中心に――」
・発表3 山岸智子(明治大学政経学部准教授)
「≪ホセイン≫vs.≪アリー≫――大統領選後のイランにおけるシンボルの相克――」


 第二回イラン政治研究会は、第一回イラン政治研究会「現代イラン政治の変化と構造――多層分析から見えるもの――」中で、現代イランの政治と社会の研究をさらにすすめるべきだとの要請が行われたのを受けて開催された。時代的にはレザー・シャー期・ハーメネイー期・2009年イラン大統領選挙後と多岐にわたり、対象も近代科学の言説、法学界内の党派争い、シェアール(スローガン)と幅広いテーマが扱われた。

 近現代世界でイラン社会はどのように位置づけられるのか。斎藤氏の発表は、その問いに答えるための一つの手段として、言説レベルで西洋近代的知の体系がレザー・シャー期イラン社会で、伝統的・「迷信」的知の体系と相克しながも、人々の思考様式に浸透していく過程について、Cyrus Schayegh のWho is Knowledgeable is Strong: Science, Class and the Formation of Modern Iranian Society, 1900-1950を手がかりに考察した。公衆衛生に関する言説、家政学に関する言説などSchayeghが扱ったそれぞれのトピックごとに話が進められ、その過程でSchayeghの議論を批判的に継承しようという発表者の立場が明確にされていった。煎じつめるとSchayeghが西洋の科学的言説の受容を「中間階級」を想定しながら考察するのに対して、斎藤氏は、すでに社会共通の磁場のようになっていたそうした言説を国家の側がどのように管理・動員したかに着目した方が有益だとする立場ということになろう。現代のイランがどのように構築されてきたのかを明らかにする上で重要な議論が提起された。

 続く発表は、ハーメネイー政権下での法学者組織の対抗を扱った黒田氏の発表である。ハーメネイーの最高指導者就任、経済の民営化路線といった過程を経て、政治的アクターは保守派と改革派に分かれる。黒田氏はハーメネイー体制下の政治構造を明らかにするという大きな目標のもと、この政治的状況にコムの法学者がどのようなかたちで関与しているのかを考察した。保守派・改革派が二分されるなかで、法学者側からの支持団体として、前者には闘うウラマー協会(JRM)、後者には闘うウラマー集団(MRM)があることは良く知られている。当発表で詳しく報告されたのは、コムにおけるそれぞれのカウンターパート、コム・ホウゼ講師協会(JMHEQ)とコム・ホウゼ講師および研究者の集団(MMMHEQ)である。ただしこれらの組織の党派争いは明確に存在するものの、それらに属さない独立派の法学者も数多く存在することは重要である。ではなぜこうしたコムの政治組織は存続しているのか。発表者は、それぞれに属する法学権威によってそうした党派性が非ムジュタヒドに受け継がれることを一つの要因と捉えた。また、こうした側面から党派性存続を見るならば、左派の再生産システムが脆弱であるという指摘も附け加えられた。この発表によって、法学者が関連するイランの政治システムに新たな視角が加えられたと評価したい。

 最後の山岸氏の発表は、2009年6月2日の第10期イラン大統領選挙の結果を受けた抗議行動において行われたシュプレーヒコール/スローガン(sha'er)について詳細に分析し、それとイラン革命時に行われたシュプレーヒコールの手法と比較した。選挙後のシュプレーヒコールは、選挙で敗北したミール・ホセイン・ムーサヴィー陣営の抗議行動だけでなく、勝利したアフマディーネジャード陣営がムーサヴィー陣営に対して行った抗議行動においても多用されていた。またムーサヴィー陣営の抗議行動の発生日のパターンが、1989年のイラン革命という「国民」的歴史事件の時間軸に沿ったパターンと類似していることが指摘された。この発表は、2009年6月以降にイランで発生している抗議行動とイラン革命時の反王政運動との運動として類似性を指摘するとともに、選挙後の抗議行動独自の戦略性を明らかにしようとしたものであり、近年の抗議運動の動態を捉えるうえでシュプレーヒコール分析が有効であることを十分に示した。

 三つの発表に対しては、フロアの関心も高く、特に山岸女史の発表には現在進行形の問題であることから多くの質問が寄せられた。そのなかでも抗議行動が現国家体制に対して「革命」運動と捉えるのか、あるいは一般的な市民運動として捉えるのかをめぐりは口説した議論が行われた。そのなかである質問者からは、明確な指標化は出来ないものの両者のあいだに雰囲気の違いのあることが指摘され、イラン研究者として抗議行動をどのように捉えていくのかが議論された。

報告者:(黒田 賢治、仁子 寿晴・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット4オスマン朝期思想研究会
(2010年3月2日 於京都大学)

・発表 Harun Anay(トルコ、マルマラ大学神学部)
"Hilmi Ziya Ulken as a Founder of Turkish Intellectual History Writing"


 発表者であるトルコ・マルマラ大学神学部のHarun Anay氏は中世イスラーム思想から近現代トルコ思想まで幅広く研究対象としており、2月5日から3月5日にかけて早稲田大学拠点と京都大学拠点によって日本に招聘されていた。

 Anay氏は発表に先立って、イスラーム思想とトルコ思想の関係に言及し、一般にイスラーム思想(Islamic Intellectual Thought)といった場合、アラブ、イラン、トルコといった地域の知識人による思想から構成されるもので、それゆえ、イスラーム思想とトルコ思想は不可分の関係にあり、個々独立に考察しえないことを確認した。発表の対象となったのはトルコ思想史研究の先駆者である哲学研究者・社会学者Hilmi Ziya Ulkenである。出自や教育背景、職歴などUlkenの生涯を概観するなかでAnay氏は、特に2つの点、すなわち、彼が1933年にイスタンブル大学の「トルコ思想学科」の準教授に就任し、『トルコ思想史』全二巻(1933・34年)を著してトルコ単独の思想史を構想したこと、1951年から15年間同大学社会学科教授に就任(のちにアンカラ大学へ移籍)して多数の論文や本を著すことになるが、なかでもジャーナル論文や新聞への寄稿文に彼の思想が反映されていることに焦点を当てた。

 青年期から晩年までUlkenは基本的に世俗的なナショナリストであったが、上述のジャーナル論文や新聞寄稿文を丹念に追っていくと、以下のような思想遍歴があることがわかる。1940年代から徐々に唯物論(materialism)や人間中心主義(humanism)に傾斜するようになった。しかし、51年に出版された『歴史的物質主義の反駁』が如実に示すように、その後、唯物論に対する批判を展開して同思想から離れていった。Anay氏はそうした側面からUlkenの思想を再解読する必要があると主張した。

 以上の発表に関して、フロアからは、生前そして没後にUlkenがどの程度の影響を与えたのか、Ulkenは現実の政治に関っていたのか否か、また、彼はどのような教育を受けたのかといった質問が寄せられた。それらの質問に対してAnay氏は、Ulkenは政治活動に深入りすることはなかったが、左翼政党と近しい関係を有していたことから当時左派を中心に影響力をもっていた、また現在に至るまで左派にUlkenの影響が見られ、そして、彼が1920年代後半からフランスやドイツに渡航した際に様々な西洋の思想(デカルト、カント、マルクス、ウェーバーなど)から影響を受けたと述べた。

報告者:(平野 淳一・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット4オスマン朝期思想研究会
(2010年2月28日 於京都大学)

・発表 Harun Anay(トルコ、マルマラ大学神学部)
"Re-Foundation of Islamic Ethics in the Modernization Period of Ottoman State (XIX-XXth Centuries)"


 本発表では、イスラーム倫理(学)(Akhlaq)について、オスマン朝期を中心に発表者自身の研究進捗状況を含めて論じられた。まず発表者のハールーン・アナイ氏は、イスラームにおける倫理の特性を概説しつつ、個人や家庭といった問題のみならず、主従関係をはじめとする政治的内容までも含んだ、きわめて多様な内容が研究対象となることを示した。さらに、時代・地域を超えた倫理的共通項がある一方で、それぞれの時代・地域ごとの特殊性も存在することに言及し、そうした地域ごとの特殊性があることは認めつつも、時代・地域を超えた倫理(学)の通史や研究の絶対量不足が焦眉の課題であり、そこに発表者は自身の研究の意義を認めている。

 そうした背景を踏まえ、発表者は自身の現在までのイスラーム倫理に関する研究の進展状況について論じた。まだまだ未開拓のこの分野の研究の対象や範囲を絞り込むためには、基本文献・用語・手法の確定が必須である。発表者はそのため、今まで倫理に関する基本文献・手法の選定と、関連用語の収集を行ってきた。発表者が対象とするイスラーム倫理は単独の学問分野で見出されるだけではなく、タフスィール、タサウウフ、神学、法学、哲学などさまざまな分野で論じられてきた。これがイスラーム倫理の研究を困難にさせている原因であるが、そうした諸分野から抽出された基本文献が提示され、それぞれの文献がもつ特性が説明された。基本文献から集められた関連用語については意味・解釈を特定している最中であり、研究成果を公表するにはまだ相当の時間と労力がかかるという。

 後半部で発表者は上記の研究成果の一部として、19世紀後半から現在にかけて、倫理の概念や議論の組み立て方に大きな変化が表れていることを論じた。オスマン朝期アナトリアでは、外部(西洋)からの思想的影響があらわれ、オスマン朝下における政治体制・社会の変化も、倫理の概念に大きな影響を与えた。そうした状況下で、オスマン朝期後半には従来のイスラーム思想の伝統と西洋思想を融合させようとする動きが盛んになり、また自殺や決闘といった従来見られなかった社会問題がオスマン朝期アナトリアに発生していた。こうした時代・社会の要請に応えるために、倫理(学)もその概念や論じ方、対象を変容させ、積極的にそうした問題に対処した点が論じられた。

 多様な内容を含むイスラーム倫理(学)であるが、古典期だけを対象とするのではなく、現代まで視野に入れ、時代・地域を超えたひとつの概念・対象として捉えていこうとする意欲的な姿勢がきわだった。こうした古典期と現代の接続は現在までないがしろにされてきた領域であり、こうした研究が数多く現れれば、現代社会を語るうえでも重要な礎となろう。今後の研究の進展に期待したい。

報告者:(安田 慎・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット2研究会「中道派の地域間比較(1)――東アラブとマグレブ――」
(2010年2月28日 於大阪大学)

・発表1吉川 卓郎(立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部)
「アブドゥッラー2世国王治世下のヨルダン政治とイスラーム行動戦線党の動向」
・発表2 若桑 遼(上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士課程)
「20世紀前半チュニジアの宗教・教育機関ザイトゥーナ・モスクにおける「保守」と「改革」――独立後の世俗主義国家体制を展望して――」


 今年度ユニット2中道派では二つの新しい研究を始めた。一つは他宗教とイスラーム中道派の関係をさぐる研究であり、もう一つは地域ごとにさまざまなあり方をしていることが予想されるイスラーム中道派の地域間比較である。もちろん本研究会は後者にあたる。今回、発表の対象となったムスリム同胞団とザイトゥーナ・モスクは方やいわば現代的な組織、方や伝統的な教育組織とまったく性質が異なり、また単純にヨルダンとチュニスを並べることはできない。しかし、ヨルダン・ムスリム同胞団と国家の関係、ザイトゥーナ・モスクと国家の関係からは中道派という概念にとって有益な情報を引き出せたと考える。

 まず吉川氏が、ヨルダンのムスリム同胞団の活動について、国王を最高権力者とする政治的支配層との関係を中心に研究発表を行った。ヨルダンのムスリム同胞団は1945年に設立され、王室とも一定の友好関係を保ちながら、今日までヨルダンの重要な政治的アクターの一つとして活動を継続している。運動の対象は他国のムスリム同胞団と異なり、ヨルダンの国内問題およびパレスチナ問題に特化しており、議会政治への積極的参加により民主化の旗振り役ともなっていることに特徴がある。ヨルダンでは上院と下院の二つからなる国民議会が運営され、国民投票によって選出される下院が上院にまさる権限を持っている。同胞団は、1980年代後半の下院選挙再開以降1997年総選挙のボイコットを除いて継続的に選挙に参加しており、その関係政党であるイスラーム行動戦線党(IAF)は、政党活動が低調なヨルダンにおいて唯一継続的に活動している政党であるといえる。

 吉川氏は、このような国家―同胞団関係を踏まえながら、近年のパレスチナ/イラク情勢の悪化によって同胞団が抱えるジレンマや、政府との関係悪化を指摘した。氏によると、同胞団は執行部の入れ替えなどによって事態の打開を図っているものの、ヨルダンの政治エリートの固定化や同胞団・IAF関係の捩じれといった構造的問題を解決するには至っていないとのことである。当発表によって転換期にあるヨルダン同胞団の現在の姿が明らかとなった。

報告者:(今井 静・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 若桑氏の発表は、フサイン朝支配下の19世紀半ばから独立後の1960年代始めに至るまでの、チュニジアの一大宗教・教育センターであるザイトゥーナ・モスクにおける教育改革の過程を分析したものである。チュニジアはトルコとならび中東・マグレブ地域において傑出した世俗国家であるが、チュニジア初代大統領ハビーブ・ブルギーバは宗教を国家統制化に置く世俗主義政策を推し進める中で、ザイトゥーナの教育機能を剥奪し、チュニス大学神学部へと統合した。そのため先行研究においては世俗主義と伝統墨守の二極の中で、ザイトゥーナが後者の象徴に位置づけられているとする。そのような評価を下されているザイトゥーナにおいて、近代教育をプログラムに含めようとする改革の流れがあったことを明らかにすることが発表者の狙いである。

 ザイトゥーナ・モスクの教育改革は19世紀半ばに始まる。フサイン朝は国家がウラマーを選出し、俸給を支払うシステムを構築し、またモスク監督機関「ニザーラ・イルミーヤ」を組織した。また教科書、学生や教師らの権利と義務、図書館について規定した。フランス保護領時代なると、フランスのイニシアティブのもと公教育局ならびにハルドゥーニー協会が設立された。ハルドゥーニー協会はザイトゥーナの事実上の支部として近代諸学を教授した。また1910年以降モスク教育プログラムに近代諸学が漸次的に導入されていった。この背景には近代教育を求める学生たちの運動があった。

 一方チュニジア全体のモスク教育を監督し、ムダッリスの選出権などを有していたニザーラ・イルミーヤは、ラシード・リダーらによる『マナール』をイスラームの正統性を崩壊させるものとみなすなど、伝統を重んじる立場を採った。ニザーラ・イルミーヤは教育改革には反対しなかったものの、シャリーアを最も重視する立場から過度の導入を批判した。

 1940年以降ムハンマド・アブドゥの影響を強く受けたモダニスト・ウラマー、ムハンマド・ターヒル・イブン・アーシュール(1879-1973)がザイトゥーナの教育改革を推し進めた。イブン・アーシュールはハルドゥーニー協会グループと協調を図りつつ、教育科目の統一・拡大、教科書の整備、近代諸学の導入などを促進した。また1940年代から50年代にかけてザイトゥーナの諸支部の大幅な拡大を敢行して、チュニジア全土で学生に近代教育を受ける機会が与えられた。一方でイブン・アーシュールはシャリーアとアラビア語の教育も重視していた。彼にとってシャリーアとアラビア語を中核とするイスラーム教育は、学生の人格形成のために復興されるべきものであった。

 1956年にザイトゥーナは大学に改組され、58年に初等部、中等部が廃止された。更に61年にはチュニス大学の創設に伴ってザイトゥーナは廃止され、チュニス大学の一学部となった。

 質疑応答ではザイトゥーナ・モスク、ニザーラ・イルミーヤ、ハルドゥーニー協会それぞれの組織的関係や、活動のクロノロジカルな推移などに関して質問が挙がり、活発な議論が展開した。

報告者:(小倉 智史・京都大学文学研究科)



KIASユニット4・SIASグループ3共催研究会
(2010年1月31日 於京都大学)

・発表:藤本龍児(同志社大学/龍谷大学)
「公共性をめぐる議論の展開」


 報告の目的は、「公共性」をめぐる議論の展開と課題の一端を明らかにし、併せて「公共性」と宗教をめぐる議論の現状と問題点の一端を明らかにすることであった。藤本氏は最初に、西洋における「公共性」の議論は「世俗化」を前提になされてきたことを指摘した。近代社会は、公私の区別を前提とする。その社会では、宗教は私的な領域(個人の問題)と見做され、公共の場から排除される。公的領域は、中立かつ非宗教的でなければならず、それゆえにイスラームを想起させるスカーフ着用はそこでは禁じられる。つまり、近代社会において、宗教は公共の場にその姿を現してはならないのである。しかし、その一方でデンマークの『ユランス・ポステン』紙に掲載され、ヨーロッパ諸国の新聞に転載されたことでイスラーム世界から多くの反発を受けた「ムハンマドの諷刺画」については、言論・表現の自由を盾に擁護する。そのようなヨーロッパのスタンスは明らかなダブルスタンダードだと氏は指摘する。

 氏は次いで、ヨーロッパにおける「公共性」をめぐる議論は、民主主義の機能不全を克服する手段として展開されてきたことを指摘した。民主主義は、個人が個々の判断で政治に参加することによって成立する。つまり、民主主義は、個人主義を前提とする社会で健全に発展する。しかしながら、個人主義の発達は、各々の個人を私的領域への関心へと向かわせる。個人は自分の私的な問題以外の公共的な問題への関心を失っていく。その結果、個人主義を前提とする民主主義がいわば個人主義の行き過ぎによって機能不全に陥ってしまう。この民主主義の危機を克服する処方としてハンナ・アレントやユルゲン・ハーバーマスによる「公共性」をめぐる議論が生み出されることになる。

 ハンナ・アレントは、「公共性」を現在では既に失われたものとして位置づけ、その失われたものを概念的に再生するために公的でもなければ私的でもない場としての「社会的領域」の勃興を提唱した。アレントは、失われたものとしての「公共性」を古代ギリシアのポリス政治に見出す。古代ポリスの政治は、公的領域における言論・活動で成り立ち、「共通善の実現」を目的とする。古代ポリスでは、私的領域と公的領域は明確に区別される。私的領域は、生命の維持と種の保存、すなわち家(oikos)の経営の場であり、公的領域は、公開性のもと、家長たちが自由で平等な言論・活動を行う場として位置づけられる。しかし、資本主義が高度に発達した近代市民社会では政治は個々人の「経済的利害の調整」の場となり、議会における利益代表者たちの討論は私的利害をめぐる議論になり果ててしまった。アレントはかくして現代では「公共性」は失われてしまったと主張する。

 氏の報告は、ユルゲン・ハーバーマスの説く市民的公共圏の議論へと続く。ハーバーマスは、誰もがその社会的地位を度外視して平等に参加することができる場として市民的公共圏を提唱した。市民は、国家権力によって規制されてきた公共性を公権力に対抗し、自己のものとして主張するようになる。市民が彼ら自身のものとして主張する場=市民的公共圏は、具体的にはサロン、喫茶店(パブ)、新聞等であった。それらは、市民にとって娯楽の場であるとともに公衆が公共的な問題について自由に議論し、合意が形成される場であった。

 しかし、このようなハーバーマスによる公共性をめぐる議論には批判もあった。その最たるものは、公共の場で社会的不平等を無視して自由な議論が行わるとしても、現実に存在する不平等が存在しないかのように合意の手続きがなされている限り、真の意味での公共性が担保されているとはいえないという批判であった。つまり、合意形成からこぼれ落ちてしまった人々を度外視して公共圏を論じるのは、どう考えても片手落ちではないかという疑問が提示されたのである。この疑問に端を発し、90年代以降、カルチュラル・スタディーズや多文化主義の議論が生み出されることになる。氏は以上のようにハーバーマスの公共をめぐる議論を説明した後、ハーバーマスによる公共圏をめぐる議論自体が現在行き詰っており、それにかわる新たな公共性の議論の必要性を指摘した。

 氏の報告は次いで、「公共宗教」論に進んだ。これは、「公共性」と宗教の関係をめぐる議論である。「世俗化」された社会では、制度化された宗教は衰退し、宗教は個人の私的体験・嗜好によって選択されることになる。これが即ち宗教の私事化である(T. Luckman)。そして宗教の私事化は、1970年代以降、スピリチュアリティ文化の興隆という形をとって社会に現れる。しかし、そのようなスピリチュアリティ文化の隆盛とは違う次元で、かつてのカトリック教会のような制度化された宗教は確かに衰退したといえるが、市民の社会生活・政治的行動に宗教的次元を付与している一連の体系(信念・象徴・儀式など)は今もなお存在しているとする「市民宗教」論(R. N. Bellah)も提唱された。さらに、1970年代における福音派(evangelicals)の伸長、カウンターカルチャーの席巻といった現象を踏まえて宗教の脱・私事化を唱える論者も現れた(J. Casanova)。氏は続いて、デュルケーム・モデル(教会の影響力の範囲=社会の範囲)による類型を「公共宗教」論に応用したC. Taylorによる議論やタラル・アサドによるカサノヴァ批判を取り上げ、最後に公的なアリーナに登場する以前の集団の意識・心理をも包含する新たな「公共宗教」論の必要性を指摘した。

 質疑応答:「公共性」についての当勉強会の議論を通じて、明らかになった問題点は2つある。一つは、西洋において「公共性」をめぐる議論は現在行き詰まりを見せていること、したがって、「公共性」をめぐる議論から有意義なアウトプットを齎すためには新たなアプローチが必要であること。二つ目は、非西洋世界、例えばイスラーム世界の研究の観点から「公共性」の議論をいかに有効かつ有意義なもの足らしめるかということ。それは換言すると、「公共性」の議論は本来、もっぱら西洋で生まれたものであり、西洋と歴史的・文化的な価値観を共有していない非西洋では使えない議論ではないかという問題である。その問題に関しては、そうは言っても現実問題として「公共性」をめぐる議論が西洋で生まれたことは事実であり、非西洋世界の研究者達が非西洋の立場を尊重するあまり、その議論を拒否することは非生産的であり、例えばイスラーム世界には歴史的にどのような形での「公共」がありえたのかを検証する必要性が指摘された。その際、何を持って「公共」の場とするかが、藤本氏と主として中東を研究対象地域とする参加者たちとの間で認識の相違が明らかになった。中東研究者の視点に立てば、市場(バザール)がムスリム、非ムスリムを問わずだれでも参加可能かつ、参加する人々全員が平等の基盤に立つことができる場ということになる。しかし、藤本氏の見解によるとヨーロッパにおける「公共性」の議論において市場は、私的な利益がせめぎ合う場であり、私的な利益を離れたところに成立する「公共」の場ではない。これに対して中東研究者の側からは、イスラーム教、ユダヤ教、キリスト教の各コミュニティーにおいて多様な「公共」概念がありうるのではないかという問題提起がなされた。例えばインドのパブリックといった場合、ムスリムのパブリックとヒンドゥー教徒のパブリックは同列に論じられるものなのか、エジプトのパブリックといった場合、ムスリムとコプト各々のパブリックはいかなるものなのかといった問いが提起された。また、イスラーム世界では前近代においてシャリーア(イスラーム法)がムスリム、非ムスリムを包含しており、その点ではシャリーアを「公共圏」と見做すことも部分的には可能ではないかとの指摘もなされたが、軍事奉仕が「公共」の概念と深く結び付いて発展してきたヨーロッパとは異なり、シャリーアには軍事と「公共」の関連は認められないという相違も確認された。さらに、近代以降、イスラーム法がかつてのような有効性を持たない状況下でムスリムの「公共性」をいかに設定するのかという問題も提起された。また、インターネットの普及によって地域、風土、領域に捉われない新たな「公共圏」が生まれるのではないかといった議論もなされたが、現実にはそのような「公共圏」は形成されていないことが指摘された。以上の議論を踏まえて、本勉強会の結論として、ヨーロッパにおける「公共性」の議論にはハーバーマスの議論ではなく新しいアプローチが必要であること、イスラームの「公共性」の問題は議論の途上にあり、今後も検討の余地があることが確認された。

報告者:(茂木明石・上智大学アジア文化研究所リサーチ・アシスタント)


 1990年代、議会制民主主義先進諸国において、投票率の低下などの現象がみられ、そうした民主主義の機能不全に対する対処法として、「公共性」をめぐる議論が注目され、期待されるようになった。ところが、欧州におけるムスリマたちのスカーフ論争や、ムハンマドの風刺が問題などに象徴されるように、公的領域への宗教の侵犯や言論・表現の自由をめぐる問題などが生じており、「公共性」という概念自体が問題化される事態に至った。そこで、西洋思想におけるこの概念をめぐる議論が、どのように展開してきたのかをテーマに、公共性をめぐる議論の展開と課題を明らかにするとともに、公共性と宗教をめぐる議論の現状と問題点を検討した。

 「公共圏」に関する研究に関して、われわれ中東地域をフィールドとする研究者にとって、D. アイケルマンの代表的な著作の1つ、New Media in the Muslim Worldがよく知られている。彼の議論は、「公共圏」の理論的研究の専門家として知られる、ユルゲン・ハーバーマスの研究によるところが多いが、藤本氏はそもそも、ハーバーマスの公共圏理解に問題があるとし、その批判的検討を行った。

 藤本氏は、「公共圏」をめぐる議論でよく引用されるハーバーマスの「公共性」の概念は、あくまで理想化された公共性であって、現実に適応できないのは当然であると指摘。「国家⇔個人」という枠組みで議論を展開できるのは、全体主義体制の国家のみであると批判した。そのうえで、公共圏が「出現した」ものではなく、「失われた」ものであるという見方を示した。

 また藤本氏は、「公共宗教論」の展開にも触れ、ロバート・ベラーの市民宗教論、ホセ・カサノヴァの「宗教の脱・私事化」の議論にはらむ危険性を、藤本氏自身の著書『アメリカの公共宗教:多元社会における精神性』を紹介しながら指摘した。

報告者:(若松大樹・日本学術振興会特別研究員/上智大学)



KIASユニット1・文部科学省委託事業「人文学及び社会科学における共同研究拠点の整備の推進事業」京都拠点強化事業共催第1回イラン政治研究会「現代イラン政治の変化と構造――多層分析から見えるもの――」
(2009年11月28日 於京都大学)

・発表1 吉村慎太郎(広島大学)
「冷戦と石油国有化運動の黎明――錯綜するイラン政治と大国政治の一段面(試論)――」 
・発表2 貫井万理(早稲田大学)
「1950年代イランの石油国有化運動とイスラーム主義組織――シャムス・ガナダーバーディー回想録の考察――」
・発表3 松永泰行
「現代イランにおける「近代的宗教思想家」の潮流――変化の文脈と構造――」
・発表4 富田健二(同志社大学)
「イランの精神性重視文化の背後――シーア派教義――」
・発表5 森田豊子(鹿児島大学)
「革命後イランの学校教育のイスラーム化――道徳・倫理教育と政治――」
 


 本研究会はパフラヴィー朝期およびイスラーム共和国体制期を視野に入れ、イラン社会・国家の政治的、思想的な動態、国際政治ファクターの深刻な影響とそれに対するイラン側の反応、などに見られる変化と連続性について考察することを共通課題とする。報告者各自の研究関心分野に応じた報告と全体討論を通し、他の中東諸国との相違を浮き彫りにしながら、こうした共通課題についての理解を深めることを目的としている。

 発表1は、石油国有化運動や冷戦の時期へと繋がる連続性と変化について鑑みながら、第2次世界大戦期の第3期(1943/12~1945/9)における、密接に絡み合うイラン内政と大国政治の関係性、政治的台頭を果たしたモサッデグの基本的な考え方について検討した。

 発表2は、シャムス・ガナダーバーディーの回想録を主な資料として用いながら、1950年代イランの石油国有化運動とイスラーム主義組織の動向に見られる変化と連続性について考察するものであった。

 発表3は、イスラーム革命前後のイランにおける「近代的宗教思想家」というカテゴリーを設定して、20世紀初頭から現在に至る文脈を2つの時期に区分し、それぞれの文脈と各々の思想家グループの問題意識の変化について分析した。

 発表4は、1950年代末のゴムのシーア派宗教界による論集ならびに1990年代のホメイニーの大ジハード論に見られる精神性重視文化の背後に、いかなる宗教的教義があるのか検証を試みていた。

 発表5は、イラン・イスラーム革命後30年間において観察される、教育のイスラーム化の過程、学校教育における政治的文化に着目し、相応しいとされる教育内容、政権変化により教育が受けた影響、教育内容に見られる変化と連続性を考察した。

 19世紀以来、様々な政治社会運動、上からの改革、国外勢力による度重なる直接・間接的介入を経験してきたイラン社会の動向と国家側の政治には、複雑で個性的な変化と連続性が認められる。こうした変化と連続性に関して、適切な文脈に沿って長い期間を考慮に入れた上で議論し、構造的に理解しようとする試みは非常に稀であるため、本研究会の実施は非常に意義深い。参加者も多く非常に活発な討論が行われた結果、本研究会では当初の予定より一時間以上も終了時刻が延長された。政治・社会動向における変化と連続性の解明は、現代イランの混迷する政治状況、国際関係を読み解くためにも不可欠である。議論の中で総合討論者や多くの参加者たちは、他地域と比較し長期間での変化と連続性を視野に入れる必要性を訴えていたが、そうすることで、本研究会が目的とする課題や報告者が取り上げたそれぞれの論点に関する分析をさらに拡大・発展させていくことが期待できる。従って、同テーマでの研究活動を長期的に継続していくことを強く求める。

報告者:(山崎 和美・東北大学)



KIASユニット4・SIASグループ3共催第二回研究会
(2009年11月14日 於上智大学)

・発表1 丸山大介(京都大学)
「現代スーダンにおけるスーフィズム――聖者信仰とタリーカとの関連からみた一考察――」
・発表2 茂木明石(上智大学)
「オスマン朝統治下カイロにおける聖者信仰の消長――聖者廟地区に埋葬された死者の分析から――」


報告1:
丸山大介「現代スーダンにおけるスーフィズム―聖者信仰とタリーカとの関連からみた一考察」

 現在スーダンで調査を行っている丸山氏は、フィールド調査の成果を用いて、現代のスーダンにおけるタリーカの諸相を豊富な事例をもとに明らかにし、またスーダンのスーフィズムの現代的意義や、聖者信仰との関わりについての分析を行った。

 まず歴史的な流れとしては、氏によれば、スーダンへのスーフィズムの流入は、15世紀中葉のシャーズィリーヤ教団の進出が、少なくとも史料から確認できる最初の例であり、その後16世紀中葉にはカーディリーヤ教団の進出が見られたという。タリーカは、スーダン社会において、イスラーム教育や宗教実践の担い手となり、広範囲に広がったと考えられるが、他方で結合力はなく、各地に分散する傾向があったという。この状況に変化が現れるのが19世紀に入ってからであり、この時期にハトミーヤ教団に代表される組織的に中央集権化されたタリーカが現れるようになった。そして、現在においてもスーダンにおいてタリーカの活動は活発であるが、イスラーム運動の台頭や政権の政策との関わりで、タリーカの新しいあり方が模索されている状況にあるという。

 続いて氏は、現在スーダンで活動を行っているタリーカの具体的な事例として、タリーカ・カーディリーヤ・アラキーヤを取り上げ、その歴史や活動を、映像などを用いて詳細に説明した。このタリーカは、もともと14世紀にエジプトに存在していたジュハイナから派生したバヌー・アラクに由来し、その後アブドゥッラー・アラキーがカーディリーヤに入会することで、カーディリーヤ系のタリーカとして活動を行うようになった。タリーカの活動としては、週単位ではアスリー(金曜日日没前に行われるズィクル)とハドラ(火曜日日没後に行われる輪読会)、年単位ではホーリーヤ(聖者の命日などを祝う年次記念日)とラジャビーヤ(預言者ムハンマドの昇天祝い)、また不定期の活動としてはレイリーヤ(命名式や病気の治癒などの記念日を祝うズィクル)があり、氏は映像資料を豊富に用いてそれぞれの内容を具体的に紹介した。

 最後に、氏は以上に紹介したタリーカの活動から、タリーカと聖者信仰・スーフィズムがどのような関係にあるのか考察を行った。まず聖者信仰については、タリーカのシャイフが人々の崇敬の対象となっている事実を確認にした上で、その根拠として、シャイフが主に病気の治癒など現世での苦しみを取り除くことができると考えられていること、また正しいムスリムになるための師であるとみなされていること、さらにはシャイフ自身が聖者信仰の担い手となっていることを挙げた。スーフィズムに関しては、タリーカ・カーディリーヤ・アラキーヤでは、そこに神に至る道、倫理、他者への愛・敬意、内面性の重視の四つの側面が見られることを指摘した。

 以上の考察から、氏はこのタリーカは二項のバランスを取る場としての機能があると結論付けた。すなわち、まずそこでは神との関係のみならず人間(他者)との関係も重視されており、一と多を結びつける場であること、自己を律すると同時に、自己の外部の状況の変化も目指されており、個人の内面と外面を結びつける場であること、そして聖者信仰を通じた現世利益の獲得とスーフィズムを通じた来世での救済を兼ね備えた、現世と来世を結びつける場であると考えることができるのである。

 質疑応答では、まず「ハルワ」といった特にスーダンの文脈で特殊な意味を持つ概念について質問がなされた。また、スーフィズムに関しては、その思想が、タリーカ・カーディリーヤ・アラキーヤの活動にどのように反映されているのか議論がなされた。そして、氏の提示したタリーカの在り方が、スーダンの地域性や政治といった文脈とどのように関わるかについても議論が行われた。

報告者:(高橋 圭・上智大学)


報告2:
茂木明石「オスマン朝統治下カイロにおける聖者信仰の消長―聖者廟地区に埋葬された死者の分析から」

 茂木氏は今回の報告でオスマン朝時代のカイロにおける聖者信仰の在り方を、「聖者廟」地区に関する文献資料から明らかにすることを試みた。この報告での中心的な課題は、第1にオスマン朝統治期における支配者層(総督、アミールなど)の埋葬地の歴史的変遷をたどることと、第2に埋葬地の変遷と三世紀間に及ぶオスマン朝によるエジプト統治の政治、社会の関係を考察することであった。年代記史料として、Jabarti、Ahmad Shalabiなど5点を、伝記資料として、Ghazziを使用した。

 初めに、オスマン朝期のエジプト史を、マムルーク朝滅亡までさかのぼって概観した。時代が下るにつれて、ベクの権力が強くなり、オスマン朝に対して反乱を企てるようになってくる。茂木氏は、この17世紀後半以降のオスマン朝エジプト総督権威の失墜と、ベクの権力の強大化を背景に、シャーフィイー廟近くに埋葬される総督の数か急増すると指摘する。そのうえで、このシャーフィイー廟近くに埋葬される総督の増加と、18世紀以降しだいに慣例化してくる新任総督のシャーフィイー廟参詣との関係は、先行研究において十分に検討されていないが、茂木氏はオスマン朝期エジプトの政治・社会とシャーフィイー廟との関係を考える上で、この問題をさらなる考究の対象とするべき問題として位置づけた。

 結論として茂木氏は、17世紀以降総督の埋葬地はシャーフィイー廟近くに集中しており、ベクの権力が高まる18世紀以降になると、ベクの埋葬地がシャーフィイー廟近くに増えてくることを指摘している。このことから、オスマン朝からの独立を主張する傾向が強まるにつれて、ベクやアミールがシャーフィイー廟近くに埋葬されることが多くなったとしている。また今後の課題として、17世紀以前に書かれた伝記資料およびJabarti以外の同時代資料、オスマン語史料などを参照する必要性を述べ、とくに16・17世紀におけるオスマン朝期エジプトのアミール、ベクの埋葬地の変遷を辿ったうえで、3世紀間の政治・社会の変化との関連を考察する必要があると述べた。

報告者:(若松大樹・日本学術振興会特別研究員/上智大学)



KIASユニット2第一回研究会「他宗教から見た中道派」
(2009年10月17日 於大阪大学)

発表1 三代川寛子(上智大学上智大学グローバル・スタディーズ研究科)
「現代エジプトにおけるコプトとイスラーム主義」
発表2 辻明日香(東京大学東洋文化研究所)
「宗教対立か、政権批判か――1321年カイロにおける教会破壊とモスク放火――」


 他宗教とイスラーム中道派の関係というテーマはユニット2「中道派」が本年度から着手した新たな試みで、その第一回目の研究会が本研究会にあたる。本研究会ではエジプトにおける他宗教のあり方を古い時代と現代とで比較するという手法をとった。

 三代川氏による発表では、現代エジプトにおけるコプトとイスラーム主義の関係について、コプトの一部とイスラーム主義の穏健派であるワサト党との協調関係に焦点を当て、協調関係が成立する背景について分析が試みられた。

 人口の6~10%を構成すると言われているコプト教徒は、現代エジプトにおいて教会建築に対する規制、エジプト憲法第二条――国教をイスラーム、国語をアラビア語とし、また主要な法源をシャリーアと定める条項――によって社会的な規制を受けている。加えてイスラーム主義が台頭するなか、コプトを庇護民扱いするイスラーム主義団体も現れている。そのため反イスラーム主義を掲げる世俗主義者がイスラーム主義団体のコプトに対する姿勢を問題にしているだけでなく、コプトの大半も反イスラーム主義の立場である。しかしそうした宗教対立状況のなかで、一部のコプトと穏健派のイスラーム主義団体とが協調関係を結ぶ現象も起きている。そこで三代川氏は、コプトを受け入れるワサト党、ワサト党に参加するコプトの双方に焦点をあて、協調関係の背景を明らかにしようと試みた。

 ムスリム同胞団から分離したワサト党にとって、コプトを受け入れることは、政府が弾圧するような「過激な」イスラーム主義者ではないことの証明となるだけでなく、幅広い支持者層を抱える可能性があるというアピールでもある。「過激な」イスラーム主義団体がコプトを庇護民としようとすることに対し、ワサト党は兵役の代替としてジズヤを支払うズィンマの契約論の立場から、現代エジプトにおいて兵役の義務を負うコプトはもはやズィンミーにはあたらないと主張する。しかし設立当初からワサト党がコプトを含めようと試みたのに対し、ワサト党に参加したコプトに政府によって圧力がかけられている。加えて、こうしたワサト党の試みはまだ一般のコプトにイスラーム主義の多様性をアピールするまでには至っていない。しかしながら、それでもワサト党に参加するコプトはおり、三代川氏はワサト党に参加するラフィーク・ハビーブ氏、アーディル・アズミー・アバーディール氏の二人について事例検証を行った。

 ラフィーク・ハビーブ氏はワサト党の設立メンバーの一人であり、アラブ・イスラーム文明の復興を主張する論者である。『ワサト文明』、『ウンマと国家』などの著書では、従来の世俗的ナショナリズムに対するオルタナティブを模索する態度とも取れる物質的なヨーロッパと精神的なアジアの中間を行く立場や危機にあるウンマの救済を主張している。もう一人の参加者、アーディル・アズミー・アバーディール氏は、これまで政治活動への参加経験がないものの、友人であるムスリムのワサト党員の紹介で入党した。発表者とのインタヴューで語ったところでは、彼はイスラーム主義団体が政治において中心的な役割を担うようになることが予測されるなかで、穏健派のイスラーム主義団体を支持するとともに内部で組織の「過激」化を抑制することができると言う。

 コプトの参加者の立場については今後も幅広く調査を進める必要があるものの、イスラーム主義団体にとってエジプト社会で穏健であることの証明としてコプトを必要とし、反イスラーム主義優位のコプト社会において一部のコプトが様々な思惑を抱えて穏健派イスラーム主義団体に参加するという現象があることを明らかにしたことで、他宗教から見たイスラームにおける中道性をとらえる視点が十分に提供されたといえよう。その後の質疑応答ではコプト社会の宗教性の度合いや、近代の中東において一般的であった列強によるマイノリティ保護の強制の問題とエジプト社会との問題、海外のコプト・コミュニティとの関係について議論が進められた。

報告者:(黒田 賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 三代川氏の発表に続いて、辻氏による「宗教対立か、政権批判か―1321年カイロにおける教会破壊とモスク放火―」の発表が行われた。発表者はイスラーム政権下のズィンミーを研究テーマとしており、特に近年はマムルーク朝エジプトにおけるムスリムとコプトの関係を扱っている。本発表は1321年にエジプトで発生した二つの事件、即ち5月に起きたムスリムによるエジプト全土の教会の破壊・略奪事件と、その一ヵ月後のカイロで起きた大規模な連続火災を対象とするものであった。複数のアラビア語史料、及びコプト側史料を用いて両事件の経過を実証的に再構築し、それぞれの事件に関する問題点を検討することで、1321年当時のムスリムとコプトの関係の一端を明らかにすることを発表者は企図した。

第一の事件は、1321年5月8日、ナースィル池にある教会の近くで掘鑿作業に従事していたグラームや民衆が、金曜礼拝と共に暴徒化、教会を破壊して中にいた者たちを殺害した。カイロとフスタートにおいても民衆が蜂起した。アレクサンドリアやダマンフールといったエジプト全土の町々で、同日に教会破壊事件が発生していたことが後になって明らかになった、というものである。

 第二の事件は、教会破壊から一ヵ月後、カイロで10日間にわたり火事が頻発した。事件の容疑者としてキリスト教徒の修道士が逮捕された。スルタンが容疑者を事件への対応として容疑者を処刑するにとどめて、コプト共同体自体に対する制裁を課さなかったために、民衆の間でキリスト教徒に対する報復やスルタンに対する抗議行動が広まった。最終的にスルタンがキリスト教徒に通常の二倍のジズヤを賦課し、ウマルの誓約を再確認するとの法令を発布したことで、事態は漸く収拾した、というものである。

 発表者はそれぞれの事件の経過を述べた後、まず教会破壊事件について(1)教会破壊は偶発的だったのか、それとも計画的だったのか。(2)なぜ、教会が標的となったのか、またカイロの火災事件について(3)放火の犯人はキリスト教徒であったか否か。(4)民衆のキリスト教徒に対する報復の背景は、当時コプト官僚を重用していた政権への批判であったのかどうか、という都合四つの問題点を設定して詳細に論じた。そして各々の問題点について、(1)一連の教会破壊事件は、カイロで発生した最初の事件から連鎖的に広まった可能性が高い。また破壊活動の背後にはスーフィーの扇動があった可能性がある。(2)教会が破壊対象となった背景に、他宗教の存在を顕示するような建物への拒否感情が読み取れる。(3)キリスト教徒の主体性や証拠の多さから、キリスト教徒実行犯説を支持する。(4)民衆は政権内でのコプト官僚の重用よりも、官僚やスルタンがコプト共同体を保護していることに抗議している、と纏めた。

 最後に一連の事件の背景に、民衆の「ムスリム」意識の高まりと反キリスト教徒感情の高まり、王朝が「イスラームの保護者」であることの希求があったことを述べて、発表を終えた。

 質疑応答では、当時の政権内に政治対立があった可能性、民衆内でのイスラーム主義の顕現について、当時ムスリムが多数派となったことが契機として考えられる、等の意見が挙がり、忌憚のない議論が交わされた。

報告者:(小倉 智史・京都大学文学研究科)



KIASイスラーム基礎概念セミナー「イスラーム法研究会」
(2009年10月12日 於京都大学)

講演者: Wahba Mustafa al-Zuhayli (Chairman of Islamic jurisprudence in the College of Shari`a at Damascus University)
題目:今日におけるイジュティハード――理論と実践――(al-Ijtihad fi `asrina hadha min hayth al-nazariyah wa-al-tatbiq)


 イスラーム基礎概念セミナーでは、KIASの研究テーマである「イスラーム世界の国際組織」の研究に資するイスラームに関するさまざまなトピックを採りあげている。今回は、現在のイスラーム法学の権威であるダマスカス大学のズハイリー氏を招聘し、イジュティハード(法判断を引き出す作業)を題材にイスラーム法研究会のかたちで開催した。現代イスラームの理解のためには今現在どのようなイスラーム法研究・運用が行われているかを押さえておく必要がある。そのためイスラーム法研究会において今後、継続してイスラーム法研究を進めていく予定である。

 イジュティハードは、「イジュティハードの門は閉じられた」との言説をどう解釈するかという問題と相まって、近現代イスラームを考える際の重要なタームとされてきた。しかし研究者たちの興味は、実際には、近現代の法学ではなく中世期法学に向かった。歴史的に、事実上、イジュティハードの門は閉じられていなかった、との結論を引き出し、それなりの成果をあげたものの、臓器移植の問題が浮上するなど急速に変化する現代社会においてムスリムがどのようにイジュティハードをとらえ、どのように適用しているのかということに関してはほとんど等閑視されてきた。当研究会のテーマはその欠陥を補う意味があった。

 ズハイリー氏は、現代のイジュティハードの定義をはじめとして、イジュティハードの実践形態や個々のイジュティハードの事例を語り、今まさに行われているイジュティハードの全体像を提示した。イジュティハードの定義などはかなり細かく練りこまれており、詳細をすべて書くことはできないので簡略にまとめておく。三種のイジュティハードを区別することが大きな意味を持つ。一つは法源となる原文の枠内でのイジュティハード(①)、二つ目は選択のイジュティハード(②)、三つ目は集団のイジュティハード(③)である。①は最も狭い意味のイジュティハードで、古の学者たちが確定させたもので、現代の学者はこれに手をつけることはできない。それに対して②と③が現代でも行われうるイジュティハードである。②は古の学者たちのさまざまな見解のなかから、手続に沿って、一つの見解を選びとる作業を指す。手続のなかで重要視されるのはマスラハ(公共の福利)であり、これにより各時代、各状況に合わせた法判断、イジュティハードが可能となる。③がもっとも興味深い。現在、イスラーム世界の各所にあるイスラーム法学協会内で協議して決議のかたちで公表されるものがそれにあたる。②のように古の学者たちが見解を残していない問題にもこれによって対処できる(もちろんすでに判断が定まっていてイジュティハードの対象とならない問題も存在する)。ズハイリー氏はそうした協会の例として、サウジアラビアのジッダやマッカ、アメリカ、インド、スーダン、イエメンにある協会を挙げた。これらはそれぞれすでに150を超える決議を発表しているという。以下、ズハイリー氏はジッダにある国際イスラーム法学協会が出した決議をもとにイジュティハードの実例を挙げていった。個々の実例も興味深いがここでは割愛する。

報告者:(仁子 寿晴・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIAS/G-COE共催WS「現代湾岸諸国におけるグローバル化と政治・経済体制」
(2009年9月26日 於京都大学)

プログラム
10:30 開会の辞 小杉泰
10:40~11:25 保坂修司「日本と湾岸地域」
11:25~12:10 大野元裕「アラブ首長国連邦における部族的紐帯の今日的意味~90年代のアブ・ダビ首長国を中心に~」
12:10~13:30 昼食
13:30~14:15 堀拔功二「労働力自国民化をめぐる政治経済論争――アラブ首長国連邦におけるエミラティゼーションの30年」
14:15~15:00 松尾昌樹「湾岸アラブ諸国におけるエスノクラシー体制」
15:00~15:10 コーヒーブレイク
15:10~15:55 平松亜衣子「クウェートにおける議会政治とイスラーム復興運動――女性の政治参加を焦点として――」
15:55~16:40 萩原淳「サウディアラビアにおける近代化と伝統的価値」
16:40~16:50 コーヒーブレイク
16:50~18:00 総合討論(ディスカッサント:長沢栄治(東京大学))



 本ワークショップは、日本において初めて開催された大規模な湾岸研究の交流事業となった。これまで、日本国内において湾岸諸国は、石油など天然資源の重要な供給源として認識されつつも、学術的にはあまり注意が向けられてこなかった。しかし、近年では若手研究者が登場し、研究全体が大いに盛り上がってきたという背景がある。

 1番目の報告は、保坂修司氏(近畿大学)により「日本と湾岸地域」と題して行われた。報告は、日本と湾岸地域の関係について、近代化以前の湾岸地域において主要な産業であった真珠産業との関係や、近年の経済的・文化的交流の展開から検討するものである。従来、湾岸地域の社会経済的な変容の原因とされる天然真珠産業の衰退に関しては、日本の養殖真珠の伸張を原因とする議論が主流であった。しかし、養殖真珠の成功は二次的であったと、諸史・資料から明らかにしたうえで、大恐慌による世界的な経済活動の低下や、石油の発見など複合的な経済構造の変化を実証的に明らかにした。

 また、日本と湾岸地域は戦前から文化的な交流があり、今日では衛星放送やインターネットを通じ、日本の現代文化が受容・消費されている。とくに、若い世代の日本文化への関心は高く、今後の新しい関係発展が期待される。

 このような議論を踏まえて、参加者からは真珠産業の変遷に関する異なる視点の提示がなされた。また、湾岸地域におけるインターネットの活用状況や、政府による検閲についても高い関心が示されていた。


 2番目の報告は、大野元裕氏(中東調査会)により「アラブ首長国連邦における部族的紐帯の今日的意味―90年代のアブ・ダビ首長国を中心に―」と題して行われた。報告は、アラブ世界を論じる上で重要な論点の一つである部族について、UAEのアブ・ダビ首長国を例にその意義を問い直すものであった。はじめに、アラブ世界における伝統的な部族概念について論じた。その上で、出版物の分析やインタビューを元に、1971年の独立以降の状況を分析し、首長国における部族について以下の四点を指摘する。すなわち、①部族的な色彩の残存、②政治経済的結びつきの、部族的紐帯に対する優越の発生、③産業別部族構成への、部族的紐帯と政治経済的結びつきの二つの論理の反映、④首長家の力の増大、である。

 質疑応答では、アブ・ダビの例を、どの程度他の湾岸諸国に援用できるのか、また、部族(特に遊牧部族)という言葉にネガティブな意味は含まれていないのか、といった点が論点となった。また、部族意識と国民意識の関連についても活発な議論が行われた。


 3番目の報告は、堀拔功二氏(京都大学大学院)により「労働力自国民化をめぐる政治経済論争――アラブ首長国連邦におけるエミラティゼーションの30年」と題して行われた。報告は、今日のアラブ首長国連邦における労働力自国民化について、従来の議論を「政治経済論争」として捉え直すことにより、その背後にある対立軸を示すものであった。UAEは現在、外国人労働者が全人口の87.5%(2009年)を占めている。外国人労働者の存在は、UAEの経済的発展にとって不可欠な存在である一方で、国民アイデンティティの観点からは問題となるなど、極めて重要な焦点である。さらに、自国民労働者の人的資源育成は過去30年間、繰り返し主張され続けてきたが、その問題も解決されていない。

 そこで、1970年代から現在までのおよそ30年間を対象に、自国民と外国人労働者の関係を主軸として、これまで展開されてきた政治経済的な議論の要点を整理し、政府と経済界の対立、国内政治における対立、政府と自国民労働者の対立として捉えなおし、エミラティゼーションが進展しない原因を探った。質疑応答では、自国民の労働観やアブダビとドバイのおける経済社会構造との関係が論点となり、議論された。

 4番目の報告は、松尾昌樹氏(宇都宮大学)により「湾岸アラブ諸国におけるエスノクラシー体制」と題して行われた。本報告は、湾岸政治の分析にエスノクラシー論を援用して、その含意と湾岸における国家分析のための理論的枠組みを検討するものである。エスノクラシーとは、資源の配分がエスニック集団ごとに差別的に行われる支配の形態である。湾岸諸国では特に国籍の有無に基づく差別が問題となる。すなわち、湾岸諸国の労働市場は、資本家である支配者が上層を、自国民である公務員が中間層を、国籍のない移民が下層の民間部門を、それぞれ構成するピラミッド型になっており、ボナチッチが論じた「分割労働市場」に擬することができる。

 この分割労働市場論によりながら、湾岸エスノクラシーの将来を論じた。第一に、公的部門の雇用が自国民の労働人口の増加を吸収し続けられる場合であり、クウェイト・カタル・UAEが相当する。この時、エスノクラシー体制は安定して維持される。第二は、人口や財政の制約から公的部門の雇用吸収能力が十分にない場合であり、オマーンやバハレーンが相当する。この時、民間部門で自国民と移民の競合が生じるが、民間部門では賃金や能力の面から移民労働力が優位に立つので、自国民労働力と移民労働力の地位が逆転して、エスノクラシーが不安定になる、と指摘した。質疑応答では、従来のレンティア国家論などの違いや有効性について質問がなされた。

 5番目の報告は、平松亜衣子氏(京都大学大学院)により「クウェートにおける議会政治とイスラーム復興運動――女性の政治参加を焦点として――」と題して行われた。

 本報告は、2008年と2009年に行われたクウェート国民議会選挙の分析である。ここでは、選挙制度の改正が選挙結果にどのように反映されたのかという点と、クウェート国民議会における政治組織の実態に焦点を絞って分析を行った。選挙制度、特に選挙区の改正による変化に関しては、第一に部族系議員の当選が有利になったこと、第二にイスラーム主義組織は、部族との連携が当選には必要なこと、第三に政府主導から議会主導の選挙へ移行した点から分析する。また、政治組織の実態については、部族やイスラーム主義組織を母体にして政治組織となっていること、リベラル派は政治組織として凝集性が高くないということ指摘する。質疑応答では、シーア派の選挙に対する影響力、ディーワーニーヤによるコントロールはどの程度のものであるかという質問が出された。また、女性票が男性候補から女性候補へ大量に流れるようになった要因を分析することが課題としてあげられた。

 6番目の報告は、萩原淳氏(京都大学大学院)により「サウディアラビアにおける近代化と伝統的価値」と題して行われた。報告は、サウディアラビアにおける近代化と伝統的価値の関係について議論するものである。伝統的価値に基づく社会生活が急激に進む近代化に対し、どのように対応しているか、あるいはどのような摩擦が生じているかについて考察した。はじめに、サウディアラビアの伝統的価値というのは、部族的な伝統とワッハーブ派のイスラーム的価値観という二つの要素が未区分のまま認識されている。そして、西洋化抜きの近代化を謳っての近代化のために、そのような伝統的価値が、近代化した社会生活を規制していると考えられると結論づけることができると説明。また、インターネットや衛星放送の影響によるサウディアラビアにおける若者の伝統的価値観の希薄化が、今後の社会的問題となる可能性を指摘する。最後に、アラビアの職業訓練制度は、成果につながっているのかという質問や、女性の運転に関しては、近年緩和されつつあるというコメントが出された。

 6名からの報告後、総合討論が行われた。長沢栄治氏(東京大学)がディスカッサントを務め、それぞれの報告をまとめた。前半に討議者が、自らの役割は「湾岸研究をアラブ・中東・イスラーム地域研究の中に位置づける」ことだとして、各発表を大きく二つに分けて「部族と政治」と「労働市場と国民統合」という論点を抽出した。前者については、部族は湾岸研究の主題として依然重要であること、植民地支配や国家形成にまで遡って研究する必要があること、生活空間の変容に伴って部族的紐帯が変化していること、などが指摘された。また後者については、湾岸諸国の自国民から外国人排斥の声が出てこない不思議さや、国民がグローバル化に適応できる層とできない層に分断される可能性、などが挙げられた。

 後半の全体討論では、これらの論点に対する反応や、関連するフィールドでの経験の紹介が、フロアから活発に挙がった。グローバル化、部族的価値、国民国家の関係をどう捉えるかは論者によって異なる。それにも関わらず、成立して40年近くを生き延びてきた湾岸諸国の頑健さと、研究対象として看過できない重要性は共有されており、湾岸研究の蓄積を示す本ワークショップの意義が確認された。

 現在、湾岸諸国研究の世界的中心はイギリス(エクセター大学、ダーラム大学)であり、毎年湾岸研究に関する大規模な研究大会が開催されている。今回の湾岸ワークショップは、日本における湾岸研究の新しい一歩となったと思われる。

報告者:(今井静、吉川洋、千葉悠志、井上貴智、堀拔功二・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット4・SIASグループ3オスマン朝期思想研究会
(2009年9月25日 於京都大学)

Speaker: Ruya KILIC (Hacettepe University)
Title: The Transmitters of the Sufi Tradition from the Ottoman Empire to the Turkish Republic


 9月25日に京都大学でオスマン朝期思想研究会の一環としてRuya Kilic氏による発表The Transmitters of the Sufi Tradition from the Ottoman Empire to the Republicが行われた。当発表では、オスマン朝下19世紀初頭から共和国期にかけて、イスラームが果たした政治的・社会的役割の一端を解明するため、4つの教団(メヴレヴィー教団、ベクタシー教団、第三期メラーミー教団、ナクシュバンディー系ハーリディー教団)と政権との関係が考察された。

 まず共和国期の教団閉鎖時におけるスーフィーサークル内の反応が大きくふたつに分かれこと、しかし政策に従うか反対するかは、時、場所、個人の選択によって大きく変わることが導入として述べられた。

 次いで、当該期における教団と政権の関係を考察する際には、それまでの伝統-あるいは諸伝統-が糸口を与えうるということから、近代にいたるまでの各教団と政権との関係が概観された。近代化が推進された時代では、変化する時代の教団の政治的態度がオスマン朝の公的イデオロギーともに考察された。教団は概して遅れたものとみなされたが、時代の変化にとまどう民衆を近代化のプロセスに適合させるために大きな役割を果たしたこと、政権に対する教団の反応は内部において一様ではなかったことが明らかにされた。さらに教団の反応がある意味で決して矩をこえることがなかったともいえる背景には、オスマン朝におけるnizam-i alem(世界の秩序)の観念が存在したことが指摘された。

 続いて、カリフ制が廃止され、帽子改革、教団の閉鎖、ラテン文字採用など脱イスラーム化改革が矢継ぎ早に行われた共和国建設後のスーフィー側の反応が考察された。スーフィーの反応はわずかにしか知られていないが、わかる範囲内でもその反応は一様ではなかった。さらには同一個人であっても政権に対する反応が改革によって異なるという点も見られた。スーフィーが改革を受け入れる際には、変化を「アッラーの意思」として受け入れた(者もいた)。またアタテュルクが世俗的な共和国を建設することでイスラームを救ったと考えた者たちもいたのだが、こうした態度が日和見主義のもたらしたものでないことも確かであると指摘された。

 発表は個々の教団および教団成員の反応を丹念に拾いつつなされ、有益な指摘が多い実りあるものであった。質疑応答も活発になされた。発表および質疑応答で何よりも強調されていたのは、一つの教団がそのまま一つの意思を体現する実体ではないということであった。すでに導入部から指摘されていたことだが、教団を構成する個々人の反応はまったく一様でなく、個人でさえも首尾一貫した考えと行動を保持し続けたとはいえない。また個人の行動原理を明らかにすることさえも難しいとされたが、発表者自身がいみじくも語っていた「個々の人の「声」を拾い伝える」という作業を通じてのみ、先入観にとらわれない歴史の細部が明らかになるのだということをあらためて実感させられた発表であった。

 当報告では発表で採り上げられたそれぞれの事例を記すことはできなかったが、発表自体は、Kilic氏の著作Osmanlidan Cumhuriyete Sufi Gelenegin Tasiyicilari (Istanbul: Dergah Yayinlari, 2009)を要約したもの(発表タイトルは著書のタイトルをそのまま英訳したもの)なので、関心をもたれた向きには著作そのものを読まれることを是非とも薦めたい。

報告者:(今松 泰・同志社大学非常勤講師)



KIASユニット1イラン文化研究会
(2009年9月12日 於京都大学)

・発表1 黒田 賢治(京都大学)
「在外イラン知識人による革命の回顧――パフラヴィー体制とイスラーム体制の相克を超えて――」
・発表2 山崎 和美(中東調査会)
「イスラーム革命後のイラン――「復興と改革」の時代――」
・発表3 齋藤 正道(東京外国語大学)
「イスラーム主義の終焉?――アフマディーネジャード現象を考える――」
・発表4 山岸 智子(明治大学)
「反植民地主義の弁証法とイラン近代史――ハミード・ダバーシーをてがかりに――」


 イラン革命から30年が経過した2009年の6月、イランでは大統領選挙がおこなわれた。この選挙でのアフマディネジャード大統領再選は、多くの人が予見していた結果だったかもしれない。しかし、その後に続いた抗議デモは予想外に大規模化し、多数の死傷者を出すなど、政治的混乱が続いた。こうしたイランの状況を多角的に検討するために、アメリカで活躍するイラン人思想家、ハミッド・ダバシの著作『イラン、背反する民の歴史』(田村美佐子・青柳伸子訳)作品社2008(Hamid Dabashi, Iran: A people Interrupted, The New Press: N.Y and London, 2007)をテキストにして、イラン文化研究会が開催された。この研究会では、ダバシの展開する議論を手がかりとして、イスラーム革命からイラン・イラク戦争後の復興・改革期を経て、アフマディネジャード大統領選出に至るイランの現代史を再考することとなった。

 はじめに黒田賢治氏から、ダバシによる革命期から革命後の混乱期、イラン・イラク戦争までの記述に対する検討がなされた。イラン革命を「裏切られた革命」とするような描写をどう評価できるかという問いかけに、各参加者からさまざまな意見が出された。

 黒田氏の意見とそれに続く議論を受け、藤元優子氏から、革命前後の混乱と興奮状態を視覚的に示した革命当時の写真などが紹介された。さらに当時のイラン文学界の雰囲気から、革命前後のイランにおける文化的状況が再考された。

 山崎和美氏は、イラン・イラク戦争後の時代をラフサンジャーニー大統領期(復興期)、ハータミー大統領期(改革期)とし、その時代的背景をダバシの所論と共に追った。アメリカの強迫観念が増幅され、暴力につながっていった9・11後の世界情勢とイランの政治状況について、ダバシが引用するカール・シュミットの「友」と「敵」概念とのつながりから、参加者間で議論がなされた。

 斉藤正道氏は、ダバシが述べる「イスラーム・イデオロギーの終焉」「反植民地主義的近代性」「エージェンシー」「コスモポリタニズム」を詳細に吟味した。これらは本書の中で十分に説明されているとは言いがたい概念であったが、その検討から、宗教者ではない貧者=アフマディネジャードの大統領選出という事象の意味を問うディスカッションに広がった。

 最後に、研究会の主催者である山岸智子氏から、第一回、第二回研究会のまとめとして、ダバシの主張と手法に関するコメントが述べられた。そのうちの一つは、「近代VS伝統」「中心VS周縁」の図式に抗戦し、コスモポリタンな国民国家というイラン像を提示したダバシの果敢な試みを積極的に評価する点である。しかし他方で、ダバシが目指すmulti-focalな歴史叙述は実現が困難であるという指摘もなされた。

 今回のイラン文化研究会は、さまざまな学問領域でイラン研究に従事する参加者同士が意見を交換する機会となった。各参加者から積極的に質問や意見が出されたことで、それぞれの発表が有意義な議論に発展し、全員が大きな収穫を得ることができた。

報告者:(細谷 幸子・東邦大学医学部看護学科)



NIHUプログラム・イスラーム地域研究2009年度第1回合同集会
(2009年7月11日 於京都大学)

第1部 京都大学イスラーム地域研究センター(KIAS)紹介
「イスラーム地域研究とグローバル・イスラーム――国際組織の研究から――」
報告者:小杉泰(センター長、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授)

第2部 公開講演会 
「グローバル・イスラーム――その拡大と深化を問う――」

講演1:東長靖(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授)
「現代イスラームの霊性と広域タリーカ」
講演2:坂井信三(南山大学人文学部教授)
「現代西アフリカの社会とイスラーム――ナイジェリアとセネガルの場合――」
講演3:武藤幸治(立命館アジア太平洋大学アジア太平洋マネジメント学部教授)
「なぜイスラーム金融は成長するか」
講演4:保坂修司(近畿大学国際人文科学研究所教授)
「自爆か殉教か――現代の聖戦――」



 人間文化機構NIHUプログラム・イスラーム地域研究2009年度第1回合同集会は研究代表の佐藤次高氏(早稲田大学)による挨拶で幕が開けた。 次に京都大学拠点代表小杉泰氏より、京都大学拠点のテーマである「イスラーム世界の国際組織」の研究目的とその背景、さらにそれぞれの公開講演の位置づけが述べられた。概略以下のような説明がなされたと考えてよい。グローバルに展開するイスラームには統一性と多様性という二つの側面をもつが、イスラームの国際組織はイスラームの統一性の側面にあたる。イスラームのグローバル性そのものは、7世紀のアラビア半島で誕生・拡大して以来、連綿として存在するが、イスラーム諸国会議機構の設立など国際組織が増加していったことに見られるように現代のグローバル化の潮流のなかでより顕著になったと考えることができる。

 京都大学拠点では「国際組織」、「中道派」、「急進派」、「広域タリーカ」、「イスラーム経済」という5つの研究ユニットと共同利用・共同研究拠点公募研究「イスラーム法とテクノロジー」という研究組織で、歴史的また現代的なイスラームのグローバル性を解明しようとしている。すなわち、本拠点は、パレスチナ問題をはじめとする中東に関することだけでなく、南アジアや東南アジアで「中道派」を主張するイスラーム組織や思想家、ビン・ラーディンを代表とした過激派・急進派、イスラームの内面を重視するスーフィズムのトランス・ナショナルな展開、イスラーム金融をはじめとしたイスラーム経済が展開する、その動態を把握することで、イスラームの超域的な統一性を明らかにしようとしている。そしてこの公開講演のそれぞれのトピックはこうした京都大学拠点の一連の研究テーマに沿って布置されているのである。

 最初の講演者、東長靖氏(京都大学)はスーフィズムが担う個人の内面性の問題とスーフィズムを実践する集団組織タリーカの展開を論題とした。スーフィズムは多くの場合、タリーカという集団に媒介されて展開するが、それは中東に限った現象ではないことを、トルコのメヴレヴィー教団、また中国のタリーカの映像を交えて紹介された。


 このように超域的に展開するスーフィズムは、一般的に「イスラーム神秘主義」と訳される。しかし神秘主義としてだけで捉えるのではなく、倫理的・道徳性を根底にもちながら、宇宙的存在としての個人を経験する神秘主義という側面ももっていると理解したほうがよい。また神秘主義詩からも垣間見られるように、スーフィズムの他に対する包摂性、共存の知が含まれていることも見逃してはならない重要な点である。

 こうしたスーフィズムの集団化したものがタリーカであるが、近代以前からの広域な組織展開だけでなく、現代ではインターネットを通じたサイバー化によって文字通りグローバルに展開している。東長氏は最後に、スーフィズムやタリーカが「イスラーム原理主義」と混同されることがあるが、社会に対する改革を志向するという共通性をもつが、その方法的差異から「イスラーム原理主義」とは異なる、スーフィズムを中心にしたオルタナティブな社会改革が起こる可能性を指摘した。

 第二の講演者である坂井信三氏(南山大学)は、ナイジェリアにおけるイスラームのあり方とセネガルにおけるイスラームのあり方を対称的なイスラームの展開として提示した。ナイジェリアとセネガルは、かつて同様のイスラームの伝統を共有していたが、植民地支配以降、異なる道をたどった。その違いは大まかに言えば、ナイジェリアではイスラームが政治化されているのに対し、セネガルではムスリムが圧倒的な存在感を示すにもかかわらず政治から離れて宗教が展開していることにある。

 セネガルでは、フランス統治時代以降、フランス流「政教分離」であるライシテが原則とされ、イスラーム勢力が政治舞台に台頭することはなかったが、ムリーディー教団の例に示されるように実は、政治・経済的領域でイスラームが重要な役割を担っている。セネガルのムリーディー教団はフランス植民地政府下で教団組織を活用した落花生の組織的生産が活発に行われ、安定した経済運営を目論む植民地政府から得た広大な所有地で落花生栽培を行っている。また1970年代末以降、農村経済破綻に伴って都市に流入した教団員がマラブーの指導下で自助組織を作った。これは貧困を脱するための有効な手段と見なされるようになった。こうしてムリーディー教団はセネガル内で政治・経済的に重要な役割を担うことになるわけだが、それだけではなく現在ではポップ・カルチャーと積極的に結びつき、それを発信することでグローバルな状況に適応しており、セネガル外にも影響力を発揮している。


 一方、ナイジェリアでは植民地政府によって文化的差異のある三つの地域が統合されるとともに分断統治が行われた。加えて、独立以降も南北の地域間での経済的格差を背景に、政治的に不安定である。こうしたなかで北部を中心にイスラーム勢力が伸張している。しかし坂井氏は、イスラーム勢力の伸張を単純にナイジェリアにおける「イスラーム原理主義」と結論づけられないという。特に、イスラーム法の導入以降に婚外子の問題が社会内部で議論された結果、シャリーアの規定に反する裁決がなされた事例からそのことがわかる。つまり、単純に「イスラーム原理主義」が台頭したということではなく、イスラーム的文化とグローバルな価値観が併存しながら、言い換えると棲み分けをしながら、ナイジェリアでイスラームが勢力を伸ばしているのである。このように二つの異なるイスラームのあり方を紹介することで、アフリカ西海岸では、決して一元的ではなく、むしろ多元的パラダイムに基づくイスラームが展開していることが丁寧に説明された。

 第三の講演者である武藤幸治氏(立命館アジア太平洋大学)は、イスラーム金融の現状と将来性を、その特性に明らかにしながら論じた。イスラームでは経済行為はアッラーの啓示に従い人間がそれを「正しく」解釈することで行われているが、イスラーム金融でも売買、リース、投資などをイスラームに則り展開している。イスラーム銀行はイスラーム的善を反映した資産の保管や金融「仲介」市場のミスマッチ解消とリスク分散などを行うわけであるが、近年、産油諸国の金融資産の増加や米国による金融取引の監督強化などの外的要因とムスリムの覚醒と制度組織の整備などの内的要因によって急成長している。


 イスラーム金融は一般的に金融破綻に強い特質をもつとされているのにもかかわらず、サブプライム・ローンの破綻を契機としたグローバルな経済危機のあおりを受けている。しかしそれは湾岸諸国に顕著な状況であって、地域や銀行による差がある。特に、マレーシアでは、安定した運営が行われており、影響は小さいという。マレーシアにおけるアンケート調査による消費者のイスラーム金融に対する評価を見てみると、ムスリムにとってイスラーム金融にアクセスしやすいという傾向があるのに加え、金融商品がイスラーム性を担保する役割を担っているという側面もあることがわかる。つまりイスラーム金融はコストや価格競争力では通常の金融商品に太刀打ちできないが、預金者が求めるものが単に金銭的リターンではないという点に留意する必要があり、通常の金融システムと代替関係にあるのではなく補完関係にあると考えられる。しかし武藤氏はさらに考察を進め、イスラーム金融は、通常の金融システムに対抗すべく、競争力強化を求める要請に沿うかたちで変化していると講演を結んだ。

 最後の講演者である保坂修司(近畿大学)は、自爆作戦のメカニズムを論じた。自爆作戦の位置づけをめぐって三つの分岐点が存在する。第一に自爆は自殺であるのか殉教であるのか、第二にテロなのかジハードなのか、第三に民間人の殺害は許されるか否かである。こうした論点の差異は、パレスチナでの「殉教」作戦に対する報道においても見られる。またどこまでが自爆作戦なのか、どこからが「殉教」作戦なのかについても議論が分かれるところである。しかしそうした位置づけ以上に、そもそも実行者の生命を犠牲にする自爆作戦がいかにして可能であり、止むことがないのかも考えなければならない問題である。


 保坂氏は、準備段階、実行、広報の三つの自爆作戦の段階に組織、個人、社会というアクターが相互に密接に連関し、それぞれが不可分の要素となっていることが自爆作戦の起こり続けている原因であるとする。そして特に、自爆作戦実行後に行われる、実行組織によるビデオ広報が自爆作戦を再生産するメカニズムとなっていると指摘する。ただしビデオを実際に見てみると、パレスチナ問題を引き合いに出しながら、イラクで自爆作戦を行うといったように場所や対象の関係性が希薄であるという点が浮上してくる。意外なことは、それだけにとどまらない。実行者が比較的高学歴であり貧困問題に還元しにくいことなど、講演者による自爆作戦についての分析は、非対称戦争における弱者側の最後の手段という一般的な理解を大きく覆すものであった。

 以上のように4人の報告者は、一般的にも、また学問的にも非常に興味深い議論をおこなっただけでなく、充実した資料をもとに丁寧に説明が行われたために聴衆にとても理解しやすいものだったのではないだろうか。


報告者:(黒田 賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット4 "Kyoto School of Philosophy and Sufism"研究会
(2009年7月8日 於京都大学)

Speaker: Prof. Nevad Kahteran (Sarajevo Univ., Bosnia and Herzegovina; visiting associate professor of Kyoto Univ.)
Title: "Overcoming Fundamentalism: About Possible Links between the Kyoto School and Sufism in the Pluralistic Age"
Commentators:
Prof. Sawai Yoshitsugu (Tenri Univ.)
Prof. Kamada Shigeru (The Univ. of Tokyo)


 「京都学派とスーフィズムKyoto School of Philosophy and Sufism」研究会は、ユニット4「広域タリーカ」の枠内で、タリーカ研究の枢要部分であるスーフィズム思想をより広い視野から捉えるために、つまり現代社会におけるスーフィズム思想を相対化するために立ち上げられた。この研究会のテーマはいわば「広域タリーカ」の基礎研究にあたる。第一回研究会となる当研究会ではアジア・アフリカ地域研究研究科で招聘中のサラエボ大学Nevad Kahteran氏による発表を中心に行われた。

 Kahteran氏の発表は、東洋思想と西洋思想との比較に挑んだことで世界的に知られる井筒俊彦の思想の中から、今日的世界状況へと連接が可能な多元主義的発想を抽出することを中心に行われた。その際、イスラーム/スーフィズム、(禅)仏教、京都学派の類似点に着目することが重要であると主張し、井筒の思想を近現代日本および東洋思想史の中で捉え直すことを試みた。

 コメンテーターの澤井義次氏(天理大学)からは、井筒と同時代を生きた西谷啓治(京都学派)と関係をもっていたこと、井筒に限らず、京都学派も東西対話への指向を持っていたとの指摘があった。また鎌田繁氏(東京大学)からは、井筒の著作について日本語によるものは宗教比較のものが、英語によるものはイスラームのものが中心になっているといった指摘があり、その点からも日本語著作に着目することで井筒の関心や価値をより浮かび上がらせることができるのではという指摘があった。その他フロアからは、今日興隆している霊的文化(スピリチュアリティー)と原理主義との関連、また京都学派をその担い手として含む20世紀の神秘主義復興の潮流に井筒をどこに位置づけることができるのかという点について、活発な質疑応答がなされた。京都学派とスーフィズムを併せて思考の土台とするという初めての試みに参加者は戸惑いながらも、この研究会の問題意識に共感し、継続的に研究することに意味が見出したように思われる。

報告者:(高尾 賢一郎・同志社大学大学院神学研究科)



KIAS・京都大学現代インド研究センター設立準備室共催講演会「南アジアと中東の類似性と特殊性」
(2009年6月29日 於京都大学)

Speaker: Dr. Aswini K. Mohapatra, (Associate Professor, Centre for West Asia & African Studies, Jawaharlal Nehru University, New Delhi, India)
Title: Similarities and Peculiarities of South Asia and Middle East: A Thematic Comparison


 KIASでは同じく京都大学に設置された京都大学現代インド研究センター設立準備室と共催でインド・ジャワハルラール・ネルー大学西アジア・アフリカ研究センターのAswini Mohapatra氏を講師として迎え講演会を開催した。Mohapatra氏は冷戦終結後の南アジアと中東――特にインドとトルコ――の関係を研究対象としており、特に地政学的な観点からの考察を行っている。南アジアと中東の双方に目配りが効く研究者がほとんどいないことから、イスラーム地域研究と現代インド地域研究を架橋する貴重な存在である。

 冷戦が終わり世界の二極対立構造が崩れたのち、アメリカの一国支配が問題となったが、その裏側でさまざまな地域に地域大国が出現している。地域大国はたんに当該地域において勢力を拡大だけでなく、地域横断的に地域大国が連携したり、反目したりといった状況が生まれてくる。歴史的に、中東と南アジアは影響を及ぼしあってきたが、こと研究面に関しては、この二つの地域をつなぐ業績は中世研究においても現代研究においてもほとんど見当たらないのが現状である。当講演はインドとトルコを主な対象として、そうした研究史的な欠陥を埋めるものである。インドとトルコは地理的に見て隣国とは言い難いが、両者の地域大国としての勢力拡大により、現在、隣国と言いうるほどの状況になっている。この隣接は両者の反目をもたらすのではなく、むしろ友好的な相互交流を生み出しているということが重要なポイントがある。これら二つの国はまったく異なるように見えるが、世俗主義を掲げ、いわゆる「民主主義」を標榜する点で共通点があり、また地政学的には、インドが西アジア、中央アジア、東アジアをつなぐハブとなっているのと同様に、トルコもヨーロッパ、中央アジア、西アジアをつなぐハブとなっていること、またインドはカシミールを通じて地理的隣国パキスタンとの間に問題を抱え、トルコはクルド人に関してシリアとの関係に問題があるとということにも類似点が見出される。

 この二つの地域大国を地理的・軍事的・経済的に結びつけているのは、ソ連崩壊後の中央アジア、ポストタリバン期のアフガニスタンである。前者は特に地下資源の供給地として、後者は安全保障上の問題から二国が関与する地域である。またそれ以上に両国ともに中央ユーラシアと歴史的につながりがあることがこの地域に関与する大きな要因となっている。この隣接関係はたがいに勢力圏が接触しているということだけにとどまらず、両国首脳が行き来したり、トルコでインド人が活発に経済活動を行ったりするなど、政治的交流、経済的交流を生み出しているのである。

 南アジアと中東との間には、この講演で述べられたような地域大国の連関があるだけでなく、もっとミクロな視点での多くの影響関係や類似点があるはずであり、両者の関係をさらに突き詰めて考えていく必要があるように思われる。

報告者:(仁子 寿晴・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット4「預言者の医学」研究会
(2009年6月20日 於京都大学)

発表題目:「「預言者の医学」とは何か――東アフリカ沿岸部の事例からの再検討――」
発表者:藤井千晶
発表題目:「医学史上の預言者の医学」
発表者:矢口直英
発表題目:「湾岸と預言者の医学――クウェイトを事例として――」
発表者:須藤由子


 「預言者の医学」は、イスラームのなかでは長い伝統を持ち、現在でも各国で多様な実践が行われているのにも関わらず、研究の蓄積は決して多くない。本研究会は、人類学の視点と、思想研究の視点から、「預言者の医学」について新たに検討するものであった。「預言者の医学」はタリーカ・ネットワークによって広がっている可能性も考えられ、両者の結び付きは将来の研究課題として極めて重要である。「預言者の医学」研究には、文献研究と現地でのフィールドワークの両面が欠かせないが、そうした両面をカヴァーできる研究者がほとんどいないのが現状である。この研究会は両者を架橋し、新たな研究を切り開くことを目的として行われた。

 まず、藤井千晶氏(京都大学)が東アフリカ、タンザニアにあるザンジバルの事例から、現代の預言者の医学について、その実態を報告した。発表者によると、「預言者の医学」(Tiba ya Kisunnah)は、1990年代以降に徐々に広がりを見せていき、現在ではザンジバルのなかで広く行きわたっている治療法のひとつである。それは、西洋医療では治せないさまざまな病気を、イスラームの教えに依拠した治療によって治していこうとする、新たな試みである。近年では、診療所や出版物、ラジオをはじめとするマス・メディアを通じてこの「預言者の医学」はさらに拡大している。発表者はこうしたザンジバルにおける「預言者の医学」の広がりを、イスラーム復興との関連で論じたが、ここでは違った視点も存在し得る。発表者も示唆していたが、「預言者の医学」の療法士たちは、西洋医療や伝統医療との違いを強調する一方、その技術や知識を積極的に吸収し、活用している。それを示すように、発表者の聞き取り調査に基づく膨大なデータのなかには、必ずしもクルアーンやハディースに乗っ取らない治療の事例が多数紹介されている。データのなかには、生活習慣の改善を促す事例や、漢方に近い治療法を薦める事例もあり、「預言者の医学」を「クルアーン、ハディースをはじめとするイスラームの教えに典拠を置いた」療法としてのみ捉えることの限界も明らかにしている。むしろ、生活改善や化学薬品に頼らないより自然な治療法を、イスラームの教えに沿いながら目指す療法という点で、現代社会における医療の問題や方向性とも密接に関わる、実に興味深い発表であった。

報告者:(安田 慎・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 矢口直英氏(東京大学)の発表では、預言者の医学に関する著作の分類をとおして、その医学史上の意義が考察された。矢口氏によると、預言者の医学の著作は次のような3つに分類できる。①初期(9世紀以降)の著作は、ハディース 学者による医学的なハディースを集めたものに留まっていた。②しかし、 13世紀になると、ハディースの引用に加え、医学的な解説が加えられた著作が登場した。③そして、15世紀になると、ギリシャ医学と同様の形態をした医学 書が、医者によって編まれた。最終的に、預言者の医学の著作は、難解であったギリシャ医学に対して、人々にとって身近なハディースを引用しながらより平易 に解説することに成功した。また、ギリシャ医学では手に入りにくい薬品が多かったのに対し、預言者の医学では、手に入りやすい薬品が扱われた。以上のよう な実用面での段階的な発展を踏まえ、矢口氏は、預言者の医学の著作が、医学の大衆化に貢献した点を強調した。それに対して質疑応答では、むしろ時の権力者 の指示によって執筆された可能性があるのではないか、という意見が出された。

 須藤由子氏(東北大学)の発表では、クウェイトの預言者の医学の実践が報告された。近代医療、中国医療、私設の民間医療、ザールのような医療が 存在する中、預言者の医学は1970年代後半?80年代前半に国家主導でつくりあげられたものであり、国立イスラーム医科学機構が治療を担っている。フロ アとの議論では、この機構の医者を養成する機関について、インドの伝統医学校(ダール・アル・ハキーマ)が一例として挙げられたことや、薬草類の多くがイ ンドから輸入されていることから、預言者の医学研究全体としても、今後、インドに焦点を当てた研究の必要性が指摘された。

 預言者の医学は、少なくとも国内のイスラーム研究では、ほとんど未着手のまま残されてきた分野であり、本研究会はまさにこの分野を開拓していこ うとする第一歩となった。総合討論では、他の地域での預言者の医学の実践状況や、預言者の医学の教育機関の調査、15世紀以降の預言者の医学の文献研究など、今後の研究の見通しが明らかになり有意義な研究会であった。

報告者:(藤井 千晶・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット1~5合同研究会
(2009年6月5日 於京都大学)

・小杉泰(ユニット1責任者代理)
「ユニット1国際関係研究のこれまでの活動と展望」
・山根聡(ユニット2責任者)
「ユニット2中道派研究のこれまでの活動と展望」
・保坂修司(ユニット3責任者)
「ユニット3急進派研究のこれまでの活動と展望」
・東長靖(ユニット4責任者)
「ユニット4広域タリーカ研究のこれまでの活動と展望」
・小杉泰(ユニット5責任者)
「ユニット5イスラーム経済研究のこれまでの活動と展望」
・江川ひかり(共同利用・共同研究拠点公募研究研究代表者)
「「イスラーム法とテクノロジー」研究のこれまでの活動と展望」


 各ユニットの責任者+共同利用・共同研究拠点公募研究代表者による、これまでの活動報告および展望に関する発表が行われ、来年度に向けての拠点全体としての活動について議論した。

報告者:(仁子 寿晴・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



イスラーム基礎概念セミナー「近代トルコに関する研究会」
(2009年5月23日 於京都大学)

発表題目:"Ottoman Citizens' Liberty and Equality: From the Midhat Constitution to the Turkish Republic"
発表者:新井政美(東京外国語大学)
発表題目:"Were the Ottoman and Early Republican Westernizations the Same?"
発表者:M. Sukru Hanioglu (Princeton University)


 この研究会はKIASイスラーム基礎概念セミナーの一環として行われ、トルコの近代化が主要なテーマである。
 市民社会、市民権に関する問題は、現代トルコにおいてEU加盟のクルド問題にみられるように盛んに論じられている。最初の発表者である東京外国語大学の新井氏の発表はオスマン帝国からトルコ共和国にいたる、新オスマン人の市民の自由と平等を中心に行われた。

 市民と世論についての考えは、1837年、在ウィーン大使であったサドゥク・リファートがオスマン帝国に書き送った手紙の中にみられ、国家の基盤とは市民であり、その総意として世論が形成されること、その世論に従って政治を行うことが必要であることが述べられている。このとき初めて「オスマン市民」についての概念が明確となった。この考えをもとに1839年ギュルハネ勅令が起草され、オスマン帝国再建を目的とした改革、タンズィマートが行われた。だがこれらの一連の改革は財政の破綻を招き失敗した。この改革のリーダーであったムスタファ・レシトの死後、彼の部下であった若い知識人たちは、新オスマン人として1860年代に反政府運動を展開した。彼らは、政府の改革政策を、国民文化の堕落、無宗教の流行を招いたものと位置づけ、自らの行動を公正の実現と現実に対応したシャリーアの解釈を主張して正当化し、その公正を実現するものとしての議会制の必要性を訴えた。

 彼らの活動について、活動の拠点となったヨーロッパから導入された思想が強い影響を与えた。その中心人物の一人、ナームク・ケマルは、オスマン市民へのプロパガンダとして『自由』などの新聞を刊行し、自由について、①個人についての諸権利、②政府の行為を人民が監視する権利から成るものと考えていた。平等については、新オスマン人は当初、反対の立場をとっていた。1865年の改革勅令において定められた、オスマン人の全人民化、オスマン人による国民議会の開催に対して、ケマルとともに『自由』の刊行に携わったズィヤは、勅令が欧米に対する特権勅諭、非ムスリムに官僚としての登用を認めた観点から、非ムスリムとムスリムの法的平等に反対した。だが、1872年、ケマルが彼のロンドンの滞在経験から、西洋の多元主義、愛国主義、友愛を強調する論説を発表したことから、オスマン帝国にヨーロッパの思想である平等が肯定的に受け入れられるようになった。他方、新オスマン人は、イスラームが帝国の発展を阻害しているとのヨーロッパからの批判に対し、イスラームは帝国と不可分であり進歩の妨げとはならないとイスラームを擁護する立場で反論していた。

 発表者は、ミドハト憲法(オスマン帝国憲法)とトルコ共和国憲法における平等の理論に共通性があることを指摘した。1876年起草されたミドハト憲法の一部であり立憲政治を保障する2月憲法において、オスマン帝国内の全員がオスマン人と認められた。この条文は、1924年に起草されたトルコ共和国憲法にある、トルコの住民は宗教、民族の如何を問わずトルコ人と認められるという内容と一致する。したがって、オスマン帝国末期にみられる、自由と平等の策定作業からは、現在のトルコ共和国市民の平等に関する理念との間の連続性がみられるといえる。

 次に、プリンストン大学のHanioglu氏が、オスマン帝国からトルコ共和国成立後、そして現代にいたるまでの近代化(Modernization)における西洋化 (Westernization) についての発表を行った。近代化と西洋化、この2つの概念は、一般的に互換性のあるものとしてとらえられ、オスマン帝国の一連の改革においても、この両者は結びついていた。1789年、セリム3世は近代化についての大改革を開始し、西洋から導入した官僚機構、常備軍が体制内に整備された。この過程で「自由」「平等」といった概念が新しく導入され、そのプロパガンダとして新聞、学校が新しく創設された。これらの概念が、オスマン帝国の現状に合う形で導入され、ヨーロッパとは違った意味で捉えられていたことは重要である。たとえば市民 (citizen)、 市民権 (citizenship) といった概念は、人と場所が結びついた祖国(wa?an)の概念において用いられた。「平等」については、オスマン帝国内の非ムスリムがムスリムと同等の権利を得るという意味において、革命的な転換を意味していた。

 続いて、1839年からの改革を推進したのは、オスマン帝国の官僚機構であり、西欧諸言語からの翻訳や借用語、またオスマン語から西洋諸言語への翻訳、外国語教育等の政策が行われ、官僚による公の場でのフランス語使用が一般的となった。1856年、オスマン帝国はヨーロッパ列強への加盟を達成した。これらの改革はイスラームの枠内で行われてきたものであるが、やがて一部の改革の指導者たちはイスラームに対して進歩の妨げとなるとの物質主義的な見解も示すようになった。1923年のトルコ共和国成立後の近代化政策からは、政教分離が唱えられ西洋化を強く意識した傾向がさらに強くなった。またその一方で、主にトルコ語研究の点から、トルコ・ナショナリズムの考えも発展した。

 発表者は、オスマン帝国・トルコの近代化・西洋化からは、西洋の影響を受けつつも独自の要素から西洋の近代化・西洋化とは区別されると主張した。なぜなら、西洋化の概念は、ヨーロッパでさえ18世紀に、ドイツの領邦統一の際の"Fatherland" の発想にみられるように新しく、ヨーロッパに本質的なものとはいえないためである。また、西洋化について絶対的な基準は設定できないため、相対的な概念であるといわざるを得ないからである。したがって現在のトルコが、EU加盟を目標とするように、ヨーロッパの一員となろうとする立場は、政治・経済などに限定されたものであり、一面的な西洋化として考えるべきではない。

 質疑応答において発表者は、後期オスマン帝国エリートの帰属意識について、彼らは西洋化の立場を相対化しながらも、旧来のトルコの慣習、宗教的儀式を批判したのであると述べた。また、近代オスマン帝国の体制がタリーカを、新体制が後進性の象徴・迷信であるとして禁止した経緯について、そこに西洋の理性主義の影響を顕著とするのではなく、クルアーン、ブハーリー『新正集』等のトルコ語翻訳にみられるような、トルコ独自のイスラーム的見解を読み取るべきであるとした。

報告者:(栃堀 木綿子・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット2(中道派)/大阪大学世界言語研究センター・地政学プロジェクト(「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクト中央アジア班)/「回儒の著作研究会」共催第2回研究会
(2009年1月11日 於大阪大学)

発表題目:「近世における中国イスラーム漢籍の出版」
発表者:佐藤実
発表題目:「アホン継承の論理」
発表者:黒岩高


 2009年1月11日、大阪大学世界言語研究センターにおいて、「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクトとの共催で、KIASユニット2「中道派」ユニット研究会が開催された。本研究会では、佐藤実氏による報告「近世における中国イスラーム漢籍の出版」と、黒岩高氏による報告「清代ムスリム・コミュニティの宗教的秩序を担うもの―経師とアホン」が行われた。両者とも近代以降の中国ムスリムを対象とする発表である。

 佐藤氏は、回儒と呼ばれる中国ムスリム知識人に関する考察を中心に発表を行った。昨今の中国では、イスラーム漢籍の叢書が陸続と出版されており、『回族典蔵全書』など中国ムスリムの間で大きく取り上げられているものもあり、今後の研究発展に期待が寄せられている。佐藤氏は、明朝期~清朝期に活躍した王岱輿、馬注、劉智、馬徳新ら四大経学家の経歴・著作について概観し、イスラーム漢籍の形式・内容について解説した。その内容は、思想哲学、儀礼解説・マニュアルが中心であった。また、江南地域、成都、雲南、光州、福建など主要出版拠点における出版物やその内容、さらには各拠点間の交流などについて、詳細な考察が行われた。

 黒岩氏は、経堂教育の担い手である経師の16~18世紀の中国社会での活動について発表を行った。経堂教育とは16世紀に活躍した胡登洲によって創始され、その後数世代をかけてムスリム知識人育成カリキュラムが編成された。経堂教育はムスリム知識人育成の他に、ムスリム・コミュニティ改革運動としての側面もあった。ムスリム・コミュニティでは、イスラーム経典に通じ、行いに優れた者(≒経師)がリーダーとして内的秩序を担うべきとする意識が次第に浸透した。結果、宗教関連事項について経師(≒アホン)が決定権を把握する「アホン教長制」が成立した。次いで、経師とコミュニティの関係性の考察がなされた。経師の中には漢文を用いてイスラーム典籍の翻訳・著作を行った者もあった。彼らには、儒学に代表される中国伝統思想との対比の中で、自らの「正統性」を主張しようとする傾向があったという。しかし、中国ムスリム経学が中国伝統文化の一部として認識される状況には未だないと黒岩氏は指摘した。

 両発表は近代中国でのムスリム知識人の活動と社会との関係性について、非常に鋭い分析を示すものであった。発表後、イスラーム関連知識の中国での伝播のあり方や、現在の中国社会におけるイスラーム教育の実態など様々な問題について、活発な質疑応答が行われた。

報告者:(横田 貴之・日本国際問題研究所)



KIASユニット1、共同利用・共同研究拠点 イスラーム地域研究拠点「京都大学イスラーム地域研究センター」共催WS「イラン・イスラーム革命30周年――中東諸国への政治・経済的インパクト」
(2月28日 於京都大学)

発表題目:「イラン・イスラーム革命から30年――研究史とインパクト」
発表者:松永泰行
発表題目:「イスラーム革命とサダムの30年――イラクの遅れてきた革命」
発表者:酒井啓子
発表題目:「シリア――東アラブにおける覇権追求と革命イランの戦略的パートナーシップ」
発表者:青山弘之
発表題目:「革命の意味をめぐって――シリア・イスラーム革命とイラン・イスラーム革命」
発表者:末近浩太
発表題目:「革命後におけるイランと湾岸アラブ諸国との経済関係」
発表者:細井長
発表題目:「オマーンとイラン革命」
発表者:松尾昌樹
発表題目:「湾岸安全保障とシーア派ファクター」
発表者:保坂修司



 本シンポジウムは、本年がイラン・イスラーム革命から30年を迎えたことを契機に、日本における現代中東の専門家が、それぞれの地域に及ぼした革命の政治的・経済的な影響とその帰趨を報告・議論するために開催された。以下、各報告の概要と議論を簡単に振り返りたい。

 小杉泰氏による開会の辞では、フランス革命、共産主義革命といったこれまでの近代革命がいずれも「世俗主義」に立脚するものであったのに対し、イラン・イスラーム革命は「宗教革命」であったところに世界史的意義があり、「革命」のもつコノテーションの違いに注意を払いつつイラン・イスラーム革命のもつアクチュアリティーを再確認すべきとの認識が寄せられた。

 続く末近浩太氏による趣旨説明では、革命の持つインパクトを「認識」と「構造」に二分し、西洋近代にとって革命は「想定外」であったのに対してムスリムにとっては「想定内」にあったこと、また「構造」を国内、地域、国際という3つのレベルで整理し、各地域、各時代、各ディシプリンからイラン革命を見ると同時に、逆にイラン革命からそれぞれの地域の研究を説き結ぶ必要があることが指摘された。

 このように議論の素地がなされた上で、松永泰行氏による第1報告「イラン・イスラーム革命から30年――研究史とインパクト」は、とりわけて同国と国外それぞれに革命の及ぼしたインパクトについて考察を加えるものとなった。そこでは、革命の持つ多重的な意味やこれまでのイラン政治史の整理に主眼が置かれたが、イランを専門とする氏がイスラーム革命の現在的帰趨について「イランの政治空間に弊害をきたしている」と消極的に総括したことは印象的であった。

 続く酒井啓子氏による第2報告「イスラーム革命とサダムの30年――イラクの遅れてきた革命か?」は、隣国イラクの視点から革命について分析を施すものであった。そこでは、イラン・イスラーム革命が勃発した同年にイラクでフセイン政権が誕生したことのもつインプリケーション、同政権が革命にどのように対処した/しようとしたのか、などが議論されたが、特にサダム政権が革命を宗教的にとらえることなく、経済的な合理性や世俗的なナショナリズムの視点から主に意味づけていたと氏が指摘しているあたり、真摯に受け止める必要があろう。

報告者:(平野淳一・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 イラン革命のインパクトについて、青山氏と末近氏はレバノン・シリアの地域動態に対する影響を中心に議論が行われた。

 青山氏はシリアにとってイラン革命は、政権が内外の不安定要因の牽制を可能にさせるとともに、「戦略的均衡」を図り、中東における地域大国へと変貌する契機であったと位置づける。

 シリアは外的にはエジプトとイスラエルによるキャンプ・デーヴィッド合意によって、対イスラエル戦略の転換を迫られるとともに、内的にはシリア・ムスリム同朋団の破壊かつ活動によって社会発展が阻害されていた。そのなかで発生したイラン革命をシリアは「国民解放」という側面を評価することで、国内のシリア・ムスリム同朋団をイデオロギーの正当性の問題として孤立させ、その殲滅に成功した。また不安定中東国際関係の中でイランとのパートナーシップを構築することで、「戦略的均衡」を図った。しかしその一方でシーア派組織の支援を通じてレバノンに干渉するイランと、レバノンにおいてレバノンにおけるパワーブローカーとしての地位を獲得し、対イスラエル武装闘争の主導権を目指すシリアの関係は必ずしも協力関係とは言いがたい側面をはらんでいた。青山氏は両義的な関係からさらに踏み込んで、現状のシリア国内の見解として「イラン脅威論」の陰に隠れて、東アラブ地域における影響を強化するという関係であると分析した。

 続いて末近氏はレバノンのシーア派組織ヒズブッラーの誕生背景について他のシーア派組織との関連を踏まえながら、その史的展開を明らかにした。レバノンのシーア派組織の古参であるアマルはバーザールガーン革命暫定政府と人的資源の問題も含め蜜月状態にあった。しかしアメリカ大使館占拠事件を背景にバーザールガーン政権がイランの政治舞台から退潮し、イラン国内ではイスラーム共和党が勢力を拡大した。こうした革命後の政権展開は次第に革命政府の方針とアマル指導部の方針の間に摩擦を生じさせた。加えてアマル内部でも指導方針をめぐって内部分裂が起こり、勢力を衰退させていった。こうしたレバノンのシーア派勢力の騒乱の中でヒズボッラーが登場し、イランの革命防衛隊(パースダーラーン)との連携により勢力を拡大していった。末近氏はこれらの展開を踏まえ、ヒズボッラーの位置づけに関し、流動的な国際関係と流動的な組織の構成体など単に「イランの手先」に還元できない問題を明らかにするとともに、本発表を結成時と今日との間の連続性と断続性を明らかにする作業の一環であると位置づけた。

報告者:(黒田賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 細井氏の発表は、イラン革命を契機としたイランと米国の関係悪化、さらにはイランに対する様々な経済制裁がとられるなかで、イランの貿易においてドバイの果たした役割に着目するものであった。発表では、様々な経済的指標やドバイを経由する対イラン貿易のメカニズムを示し、経済制裁の陰では先進諸国やイランの隣国がドバイからの再輸出という方法でイランとの交易を継続してきたと論じた。

 また、海外直接投資の問題について触れ、この分野においてもドバイを利用した投資活動が活発に行われている可能性を指摘した。イランの直接投資をめぐっては、国際連合によるイランへの金融制裁に伴って、カントリーリスク(商業リスク以外に生じるおそれのある損失を示す指標)が悪化し、外国資本の投資意欲が低下した。このような状況のなかで、ドバイに設置した特定目的会社(SPD)を通じて、イラン企業がUAE企業として行っている経済活動がどの程度存在するのかについても、今後さらに検討していく意義があると述べた。

 イランとUAEの経済関係は、20世紀の初頭にイラン系商人がドバイへ移住したころから密接なものとなり、それ以来、ドバイは対イラン貿易における交易拠点としての地位を確立した。そして、イラン・イスラーム革命とそれに続くイラン・イラク戦争から今日に至るまで、対イラン経済制裁のなかでUAEとイランの密接な経済関係を利用した経済活動が行われていることが報告された。

 続いて松尾氏により報告がなされた。

 イラン革命前のオマーンは、60年代以来内戦状態にあった。オマーンの共産主義化を恐れる国々は内戦にも関与しており、革命前のイラン政府は内戦終結宣言が出された1975年以降もイラン軍をオマーンに駐留させていた。革命後、軍は撤退されたものの新政府とオマーンの外交関係は継続されていた。

 一般的に、オマーンにおけるイラン革命の影響は、他の湾岸諸国と比較して小さかったといわれている。その理由として、オマーンとイランはホルムズ海峡を共有しているために敵対する必要がないという議論や、オマーンにおけるシーア派人口の割合が他の湾岸諸国と比較すると小さかったためという説明などが提示されてきた。

 上記のような見解に対して、オマーンにおいて革命の影響が小さかったことの「積極的」理由を見出そうというのが本発表の目的であった。そのために、「湾岸型エスのクラシー」、および「イスラームのオブジェクト化」という2つの議論を用いて革命当時のオマーンの状況が検討された。

 はじめに、「イスラームのオブジェクト化」についていえば、当時のオマーンでは近代教育制度が開始されたばかりであり、集合的アイデンティティや、他者としてのシーア派という関係は成立していなかったことが指摘された。さらに、インド系のシーア派住民が人口においても経済力においても大きな影響力を有していた。そのため、従属集団としてのシーア派というカテゴリーが存在しなかったといえよう。

 「湾岸型エスノクラシー」についていえば、70年代のオマーンではアラブ系オマーン人が支配集団を形成する途上にあり、官僚機構には近代教育を受けたザンジバル系住民が多く登用されている状況であった。また、1968年に開始された石油の生産量は他の湾岸諸国のなかでも規模が小さく、さらに、アラブ系オマーン人内部においても階層分化がみられることなどから、オマーンにおける「湾岸型エスノクラシー」は完成しなかったと結論づけられている。

 保坂氏の発表では、湾岸諸国の安全保障体制とシーア派ファクターとの相互関係について、広い視点からの分析がなされた。本報告では、発表内容を簡単に紹介したい。

 湾岸の小国にとって、安全保障上もっとも重要なことは、独立の維持、および現体制維持のために周辺諸国や大国との合従連合や協力体制をいかに図ってゆくかという点にある。20世紀初頭においては、オスマン朝と英国が地域の安全保障にとって重要なアクターとなっていた。戦間期にあたる1930年代には領土的変更は一時停止され、英国がこの地域における覇権を握っていた。ところが、1970年代になると英国は撤退をはじめ、英国に代わって米国がこの地域の安全保障にとって重要な役割を果たすようになった。

 しかし、イラン・イスラーム革命によって、イランとサウディアラビアを二本柱とする米国の対中東体制が崩れた。そして、イラン革命の影響を恐れた湾岸の小国とサウディアラビアは湾岸協力会議(GCC)を結成し、米国はGCC諸国やイランと戦争を展開するイラクとの協力体制を強めた。いずれにせよ、湾岸諸国のシーア派ファクターは、地域大国であるイラン、イラクの影響を受けて顕在化する傾向がある。

 GCC諸国における対イラン関係が大幅に改善されたのは、サウディアラビアのシーア派問題をめぐってイランとサウディアラビアが合意を形成した1993年のことであった。これによって、革命の輸出がストップされ、スンナ派とシーア派との共存の時期が訪れた。これは、歴史的にみても、ペルシアと対岸のアラブ諸国の関係が(少なくとも政府レベルにおいて)良好になった時期として捉えられる。

 2000年代以降の湾岸安全保障とシーア派ファクターについていえば、現在GCCそれ自体は大きな対立を抱えていないといえる。その一方で、湾岸地域の周辺ではレバノンやシリアにおけるシーア派ファクターのインパクトが強まっており、イランはその動きと大きく連動している。このような状況に対して、湾岸諸国は慎重な態度を取っているのが現状である。

報告者:(平松亜衣子・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット3「急進派」第一回研究会
(12月6日 於早稲田大学)

発表題目:「『現代の思想諸学派』におけるムハンマド・クトゥブの思想」
発表者:西野正巳(防衛研究所)


 西野氏の発表は、現代イスラーム急進派の思想的展開に多大な影響を与えたとされるサイイド・クトゥブ(以下、S.クトゥブ)の実弟、ムハンマド・クトゥブ(以下、M.クトゥブ)が1980年代前半に出版したと推定される書籍、『現代の思想諸学派』の内容を紹介しつつ、クトゥブ兄弟の思想的異同やM.クトゥブの思想的位置づけを探るものであった。

 同書は近現代西洋の思想潮流として、民主主義、共産主義、世俗主義、理性主義、民族主義、郷土主義、人道主義、無神論などを取り上げる他、西洋キリスト教世界の歴史と近代以降の西洋世界について検討しつつ、ジャーヒリーヤ概念や女性のジェンダー役割や教育について論じている。西野氏は、特に後者のM.クトゥブの世界観にまつわる部分について重点的に報告を行った。

 M.クトゥブは西洋世界の歴史を論じる際に、ユダヤ陰謀論に依拠している。すなわち、フランス革命以降、ユダヤ教徒を中心とするフリーメーソンがキリスト教の破壊を試み、ユダヤ教を迫害してきたキリスト教西欧に復讐をしたというのである。彼によれば、ユダヤ教徒は近代以前より、「人類ロバ計画」なるものを遂行してきた。人類をロバ、すなわち自分たちの利益のために使役できる存在とするために、道徳や伝統、家族の絆、女性の貞節や恥じらいといった価値規範を破壊しようとするこの計画は、しかし、近代以前には確固とした宗教の存在によって成功することができなかった。ところが、市民革命に象徴される政治社会構造や規範の変化に加え、マルクスやフロイト、デュルケムのような人間存在や社会の根源を探求する学者たちの仕事を通じて神の存在は否定され、それにともなって近代西欧社会では人類ロバ化が完遂することになる。また、女性に関する規範も教育や職業生活への女性の参加を通じて崩壊し始め、家族制度の崩壊も引き起こされることになった。このような近代西欧社会をジャーヒリーヤと断罪する点でM.クトゥブはS.クトゥブと共通するが、その一方で、現代の自由民主主義は歴史上の全てのジャーヒリーヤの中で最良の状態にあると明確に認めるという点でM.クトゥブは際立っている。民主主義についても、イスラームと類似する点はあるにしても、それをもって安易に両者の両立や同一視を行うことは西洋にたいする精神的敗北だと批判しつつも、民主主義は長期の闘争によって獲得されたもので、闘争の歴史を有さない国家に民主主義を導入しても人々の権利は保障しえず、イスラーム世界が民主主義を導入するにしても長期間の教育、努力、自己犠牲が不可欠であるとして、同じ努力が必要なら真の善に至るイスラームを選ぶべきだと主張する。西野氏によれば、M.クトゥブは現在の中東諸国が大変にひどい状態にあることを認めつつもジャーヒリーヤ状態にあるとみなしているかは曖昧であり、「人類ロバ計画」がかろうじて完遂できない程度にイスラームは機能していると考え、そこを基本にイスラーム的に政治社会を改革しようと考えているのである。

 西野氏の発表に対して、飯塚正人氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)がコメントを行った。飯塚氏は大きく二つの論点を提示した。一つは、M.クトゥブを急進派とすることが適切なのかどうかである。これは急進派の定義とも関わる問題であるが、現代のジハード思想とM.クトゥブの議論の関連についてより研究をすすめていくことが必要となる。特に、M.クトゥブは現在の中東がジャーヒリーヤ状況にあると明確に打ち出していないという点は、注目に値する。道徳論や宗教の防衛、さらには民主主義に関する議論などは、幅広くイスラーム世界で共有されており、時代的にも19世紀末以降の復興思想家以来、連綿と受け継がれている議論である。飯塚氏はもう一つの論点として、ユダヤ陰謀論のような、日本では「トンデモ本」と位置づけられるような論理展開の同書をどのように取り扱い、位置づけるのかという問題を指摘した。しかも、ユダヤ陰謀論を始めとして、西洋キリスト教や西洋の女性道徳に関する批判は、実は西洋社会において生みだされた議論や言説をそっくりそのまま輸入しているに過ぎない可能性がある。つまり、西洋批判のオリジナリティさえもが疑わしいのではないかという話になってくるのである。
 飯塚氏の指摘した論点について、今後、M.クトゥブの多くの著作についても研究をすすめていくことによって急進派なのか、さらには急進派と穏健派の違いはどう定義できるのかについて考察を深める必要性があきらかになった。また、西野氏は実は、S.クトゥブについても、彼自身を急進派としていいのか、クトゥブ本人とクトゥブの議論の一部をことさらに大きく取り上げ、場合によっては曲解した主張を展開するクトゥブ主義を区別し、クトゥブについては彼の著作の全体に依拠して判断しなければならないのではないかとの見解が示された。また、陰謀論については、国によって浸透の度合いや時期に大きな違いが見られ、各国の外交関係や政治社会状況との関連で読み解いていく必要が議論された。

 研究会の第3部では、現代エジプト社会論として、鈴木恵美氏(早稲田大学イスラーム地域研究機構)を加えて討論が行われた。鈴木氏はエジプト社会におけるテロ活動や過激派への見方が、居住地域(ナイルデルタかシナイ半島か)や社会階層(ベドウィンか定住民か)によって大きくことなることや、エジプトで発生しているテロや武器密輸問題は、シナイ半島を通じて地続きであるガザのハマース支援という観点で、より広い国際関係の視点から情報を分析していく必要があることを指摘した。その他、エジプト後継者問題とムスリム同胞団の行方などについて活発に議論が行われた。

報告者:(澤江史子・東北大学大学院国際文化研究科准教授)



KIASユニット2「中道派」、TIASグループ2「中東民主化研究班」、TBIAS研究プロジェクト「現代イスラーム研究班(議会主義の展開と立憲体制に関する比較研究)」のアラブグループ、神戸大学大学院国際協力研究科共催研究会
(11月15日~16日 於神戸大学)

発表題目:「国際協力研究科によるイエメン・プロジェクト紹介」
発表者:高橋基樹(神戸大学大学院国際協力研究科)
発表題目:「パキスタン『民主化』という課題」
発表者:井上あえか(就実大学)
発表題目:「パキスタン政治における政党の役割:パキスタン人民党(PPP)の場合」
発表者:萬宮健策(大阪大学世界言語研究センター)
発表題目:「近代エジプトにおける刑事法制の展開」
発表者:勝沼聡(東京大学大学院博士課程)


 本研究会はIASの東京大学拠点グループ2「中東民主化研究班」、京都大学拠点ユニット2「中道派」、東洋文庫研究プロジェクト「現代イスラーム研究班」アラブグループ、及び神戸大学大学院国際協力研究科の共催によって、11月15日・16日の二日間、神戸大学大学院国際協力研究科において行われた。4つの発表のうち2つがパキスタンの現代政治、残りの2つの発表のうち1つがイエメンにおける女子教育、もう1つが19世紀末のエジプト刑法に関するものであった。個別の発表の内容は以下の通りである。

1.Mazen Al-Yousefi氏の発表"Broadening Reginal Initiative for Developing Girl's Education in Yemen(イエメンにおける女子教育の発展に対する地域的イニシアティヴの拡大)"では、神戸大学大学院国際協力研究科によるイエメン・プロジェクト紹介が行われた。まず、イエメンの教育が抱える女子教育の問題、すなわち同国の初等教育における女子の就学率53%、また初等教育終了率33%などの問題点が指摘された。そしてかかる問題に対して、国際協力機構(JICA)主導によって行われた女子教育改善のためのプロジェクトの内容と成果が報告された。
 JICAプロジェクトの対象地には人口が密集し、貧困レベルが高く、教育レベルが低いタイズ(Taiz)という、同国西部に位置する都市が選ばれた。2004年から2007年まで実施されたプロジェクトの結果、教室数が25%増加、女子学級の教室数が50%増加(イエメンでは伝統的に男子と女子が別々の教室で教育を受ける由)、310名(内女性128名)が教師として契約(採用)されるなどの成果が得られた。最後に氏は、こうした改善の継続、プロジェクト終了後に何をすべきか、就学した女子児童を如何に引き留めるのか、といった点を今後の課題として指摘した。

2.井上あえか氏の発表「パキスタン―『民主化』という課題」では、未だ発展途上にあるパキスタンの民主化プロセスの特質及び問題点が取り上げられた。パキスタン政治を特徴付けているのは、政党政治の失敗と政治家に対する不信、そして軍を最大のエスタブリッシュメントとする権威主義体制であり、パキスタンの民主化は「軍」というものの存在抜きにして語ることは出来ないことが具体的な事例を交えて詳しく説明された。
 経済的不振や汚職問題により倒れたブットー政権の後に地すべり的勝利で成立したシャリーフ政権であったが、独裁化、汚職、経済的失敗などから国内治安を引き起こし、他方で軍の影響力を削減しようとし、ムシャラフ陸軍参謀長を解任するにいたってクーデーターが起こり、パキスタンの民主化プロセスは一時停止することになった。しかし、8年余り続いた軍事政権は終わりを告げた今、国民が自国の運営を政治家に任せざるを得ない状況にあると井上氏はまとめた。
 発表では、パキスタンでは「州益」とでも呼ぶべきものが強く、各政党はそれぞれの基盤を超える全国政党が未だにないという状況、大統領―首相―軍の関係、アメリカとの関係が重要である点、隣国の大国インドを意識せざるを得ない点など、複雑なパキスタン政治の理解に必要な豊富な知見が披瀝され、質疑応答でも活発な議論が展開された。

3.萬宮健策氏による発表「パキスタン政治における政党の役割:パキスタン人民党(PPP)の場合」では、パキスタンの主要な政党(現与党)で1967年にズルフィカール・アリー・ブットーによって創設されたパキスタン人民党(PPP)の歴史及び特質がパキスタン政治の流れとあわせて詳述された。
 はじめに、創設者でありPPPそのものといっても良いほどのブットー一家の来歴についてズルフィカール・ブットーを中心に解説された後、パキスタン政治におけるPPPの位置について説明がなされた。氏はPPPの綱領を取り上げ、「イスラームは我々の信仰である」と記されているが政策面ではイスラーム的側面が見られないこと、「中道左派」という位置づけにあること、ブットー家の強調といった同党の特徴を抽出した。他方で、PPPは設立当初は「改革」・「革新」といったイメージで急成長し、動員力・組織力では群を抜く政党であるものの、あくまで「ブットー家」の政党であり、「地方勢力」を脱しきれていないと指摘し、「ブットー」なしでPPPは生き残れるのかという問いを提出して報告を締めくくった。
 質疑応答ではブットー家がシーア派であることや、PPPのイスラームへの距離のとり方など幅広い議論が展開された。

4.勝沼聡氏による発表「英占領下エジプトにおける刑事政策と立法諮問議会:1890年代の刑法改正と刑事立法を中心に」では、1882年のイギリスによる軍事占領開始後のイギリス当局主導による刑事政策と立法諮問議会の役割が検討された。
 法律、法令を含む勅令の制定のためには立法諮問議会への諮問を経る必要があり、同議会議事録には全ての法案が収録されている。同議事録を丹念に読み込んだ氏の発表は、法務省顧問のスコットに代表されるイギリス当局の意向と、それへの立法諮問議会の対応の改定を詳らかにするものとなった。
 具体例として氏は「浮浪民」を取り上げた。イギリス当局は浮浪民=無職の人々こそが犯罪の根源であると認識しており、こうした当局の認識が職業訓練の実施や、浮浪民を社会へ統合しようとする行刑思想につながっていた。これに対して立法諮問議会は浮浪民の体後をより細かくすべきであるとの修正意見や、罰則に関してエジプト人と外国人の区別を撤廃すべき、犯罪の担い手は浮浪民ではなく外国人や遊牧民であるとの見解を示した。氏は立法諮問議会のそのまま答申が受け入れられた事実から、立法改正における同議会の影響力が再評価される必要がるとの結論を導き出した。
 質疑応答では、用語の定義や1890年代の法改正の意義を巡る質問から、法務省顧問のスコットがインドにいたことから本研究の射程を他のイギリス植民地へも拡大しうるのではないかとの意見まで出されるなど、非常に興味深いやり取りが行われた。

報告者:(伊藤寛了 東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程)



KIASユニット3「急進派」、SIASグループ1共催WS「アフガニスタンは今どうなっているのか」

発表題目:「タリバーンとは何だったのか?――ムラー・ウマル・ノート――」
発表: 高橋博史(外務省国際情報統括官組織)
発表題目:「アブダッラー・アッザームとアラブ・ムジャーヒディーン」
発表: 樋口征治(中東調査会)
発表題目:「アフガニスタンの今」
発表: 田中浩一郎(日本エネルギー経済研究所)
発表題目:「混乱するパキスタン情勢」
発表: 井上あえか(就実大学)
発表題目:「米国の対テロ戦争とアフガニスタン」
発表: 宮坂直史(防衛大学校)
発表題目:「カーイダの現状」
発表: 保坂修司(近畿大学)

(2008年10月18日 於京都大学)


 アフガニスタンの混乱した状況が続いている。2005年12月に議会が開かれ、復興のための国家体制がようやく整ったにも関わらず、ターリバンを称する組織が依然としてテロ活動を続けているほか、国内各地に犯罪・麻薬組織が存在する。また、経済状況が悪いことから武装強盗などの一般犯罪が横行している。状況は05年以来むしろ悪化しており、これまで比較的安全とされてきた首都カブールも例外でない。

 本ワークショップを構成する六つの発表は、このように混乱するアフガニスタンがまさに「今どうなっているのか」理解しようと、それぞれ独自の視点から試みるものだった。

 まず、午前のセッションでは、同時多発テロ以前にアフガニスタンのジハードで重要な役割を果たした二人の人物が紹介された。

 高橋博史氏は、「タリバーンとは何だったのか?―ムラー・ウマル・ノート」で、ターリバンの最高指導者ムラー・ウマルの生涯を紹介した。高橋氏によるウマルの生涯の再構成は、主に1988年から96年に渡るアフガニスタンでの聞き取り調査に依っており、発表に付随して聞けた当時のカブールやカンダハルの混乱ぶりは非常に生々しいものだった。

 ウマルの出生年は1959年と伝えられている。父を早くに亡くしたウマルはおじに引き取られ、少年時代はマドラサに通っていた。やがて同じ部族の人間を頼ってカンダハルに出て、ムジャッヒディーンとしてソ連との戦闘に参加するようになった。高橋氏は彼の部下だった人間から直接、聞き取り調査をしたという。ウマルは戦闘が非常にうまかったものの、十数年後におじと仲違いをして、七人の仲間と独立した(この仲間たちは後のターリバンの側近となる)。しかし、ソ連との戦闘が終結に向い、ムジャッヒディーン政権がカブールで成立した時には、部下とともにモスクで喜捨を受けて生活するような貧窮状態にあったという。

 ターリバン決起の契機には諸説がある。例えば、ウマルの所に来ていた若者がムジャッヒディーンのコマンダーにいじめられたことに憤慨した、という話が紹介された。また、決起前からウマルはカンダハルの惨状に常々心を痛めていたともいう。93年にターリバンはゲリラ勢力の会合に参加して代表に選ばれたが、有力だったからではなく、逆に目立たなかったためにどの勢力からも無難と思われたからである。

 このように政権獲得前のターリバンを熟知する高橋氏は、ターリバンが組織として、ある時点で変質したのではないか、と推測した。つまり、成立当初は国内志向の組織だったのが、ウサマ・ビン・ラーディンの影響を受けて国際志向へと変貌したと考えられるのだ。

 二人目の人物は樋口征治氏による「アブダッラー・アッザームとアラブ・ムジャーヒディーン」で取り上げられたアブダッラー・アッザームである。アッザームは、80年代にアフガニスタンで対ソ連戦闘に参加した外国人義勇兵の中心的存在だった。現在では取り上げられることが少ないものの、カーイダに現在も大きな影響力を持っており、広報ビデオなどでしばしば言及される人物である。

 1941年にパレスチナで生まれたアッザームは、少年時代からムスリム同胞団の活動に親しみ、シリアやサウジアラビアでイスラーム法学を修めた。68年、アンマンに住んでいたアッザームは、子供たちのジハードをたたえる歌を聴き、我が身のふがいなさに思い至り、ジハードを決意したという。ヨルダンやサウジアラビアで大学の教職を勤めていたアッザームが、アフガニスタンのムジャッヒディーン支援に行きついたのは81年のことである。樋口氏はこの経緯を、同胞団に感化されて武装闘争を展開していたものの、政権からの活動締め付けに閉塞感を覚えていたところに、アフガニスタンに活路を見出した、とまとめた。

 アッザームはビン・ラーディンと知り合い彼の資金を得たことで、アフガニスタンに向かう外国人義勇兵の支援活動に乗り出した。その内容は、外国人義勇兵の受け入れ・組織化、人道援助、教育機関の運営、出版事業、アフガニスタンの現地情勢調査など多岐に渡った。また、サウジをはじめとする国々からの支援の受け皿となり、これらの場所へ講演旅行に出かけ、支援呼びかけに奔走した。

 しかし、後方支援に飽き足らないビン・ラーディンやアイマン・ザワーヒリーらがアフガニスタンでの戦闘に直接参加していったことにより、アッザームの存在感は薄くなっていった。ソ連軍の撤退に伴うムジャッヒディーン各派の内紛に巻き込まれ、89年にアッザームは息子と共に爆殺された。

 アッザームは理論家として、また活動家としてジハード活動に多大な貢献をなした。前者に関しては、防衛ジハード理論を作って国際ジハード運動の理論的基礎を形成したことがまず挙げられる。後者に関しては、教職が長く弁舌に長けていたアッザームが、ムジャッヒディーンの間でカリスマ性を獲得したことが指摘された。

 しかし、アッザームを始めとするアフガン・アラブはジハードに情熱的でありすぎた。神助による奇跡を信じて冷静な視点を失ったのが、現在に至るまでジハードを唱えれば勝利か殉教を勝ち取れると信じる人々を生み出している不幸だ、と樋口氏は総括した。

 続いて午後の部では、同時多発テロ以後のアフガニスタン周辺の情勢が、四人の研究者から発表された。



 田中浩一郎氏は「アフガニスタンの今」と題する発表の冒頭で、現今の情勢を道路状況に例え、「道幅(=処理能力)が限られているところで、交通量(=問題)が多く、交通整理が覚束ない(=内紛や意見相違)ところに、対面交通(=武装抵抗)に見舞われており、補修工事(=復興事業)も実施できず、路面(=治安情勢)は荒れるばかり」と表現した。この総括が、NATOによる危険度ランキングなど豊富な統計資料を用いて検証された。そこで強調されたのは、現在ターリバンを名乗る集団が、実は、旧ターリバン武闘派から犯罪人・無頼人に至るまで、様々な出自から構成されている事実である。そのため、専ら元ターリバン政治家と交渉を図ろうとするカルザイ政権の試みは、たとえ取り込みに成功したとしても、全体の解決に至らない。

 さらに田中氏は、麻薬が治安悪化の大きな要素になっていることを指摘した。麻薬生産はターリバンの主要な資金源の一つである。国連決議は、麻薬精製のための触媒を禁輸する措置をとったものの、2001年10月にターリバンによる実効支配の終了をもって、解除されている。現在、麻薬精製工場やケシ取引市場は全国的に広がっており、国際社会の対応はちぐはぐなものである。

 このように混乱する現在のアフガニスタンの問題の中心にあるのは、政府のガバナンスの弱さである。今の治安状態で09年の大統領選挙を自由で公正なものにすることは難しく、仮に選挙を実施してカルザイが再選されても、高い支持は期待できない。国際社会がカルザイを支えられるか否かが鍵だという。

 この混迷するアフガニスタン情勢に、関係国はどのように対応しているだろうか。井上あえか氏による「混乱するパキスタン情勢」は、隣国のパキスタンが「西の安全を確保して後顧の憂いなくインドと対決する」ために、ジアー政権期(1977―78年)から一貫してアフガニスタンに「衛星国家」を作ろうとしてきた経緯を論じた。同時にパキスタンは、ムジャッヒディーンを支援することで汎イスラーム主義の盟主に就き、冷戦の前線となる引き換えに、アメリカから支援を引き出してきたのである。

 この政策は、同時多発テロ後、速やかに転換された。ターリバンへの支援は停止され、マドラサに登録制を導入して取り締まりが図られた。しかし、米軍との協力体制構築を優先したこのような政策転換は、国内世論に鑑みれば困難なものだった。国民の間では、パキスタン側で頻発する米軍の誤爆に対し、米軍への不信感が高まっていき、結果的にイスラーム過激派を容認する姿勢に変わっていったという。

 一方、アフガニスタンにおける米国の対テロ政策を評価したのが、宮坂直史氏による「米国の対テロ戦争とアフガニスタン」である。発表では、米国の対テロ政策の変遷が、主に議会発言に依拠して追跡された。前半期のクリントン政権はテロを専ら「国内安全保障上最大の問題」と位置付けており、ターリバンへの関心も、アフガニスタン国内での圧政・女性抑圧などに限られていたという。しかし、1998年の大使館連続テロを契機に、ターリバンを脅威として認識することになった。複数のテロの犯人としてビン・ラーディンの引き渡しをターリバンに要求したが、未解決のままブッシュ政権に引き継がれた。

 当初、対テロ政策を棚上げしていたブッシュ政権が「対テロ戦争」に乗り出すのは同時多発テロの後である。2001年10月7日には「不朽の自由作戦」と称された一連の軍事作戦がターリバンに対して開始された。その後も「アナコンダ作戦」、「メデューサ作戦」などの名前を冠した作戦が多数実施されているが、宮坂氏は、軍事で解決を図るならもっと大規模な人員の投入が必要ではないか、と疑問を呈する。また、02年1月の「悪の枢軸」指定や、同年3月のイラク戦争は、「対テロ戦争」に位置づけられているものの、そのレトリックはかなり苦しいものであり、むしろ「対テロ戦争」からの「脱線」と見なせる。

 現在、アフガニスタンの治安悪化、ターリバンの再組織化、イラクからアフガニスタンへのテロリスト流入などの動向を受けて、米国は再び「対テロ戦争」に回帰している。しかし、これまでそのキャッチーさから多用されてきた「戦争」という言葉は、政権内外から批判を浴びている。例えば、テロリストは「対テロ戦争」というフレーミングに乗ることによってむしろ自分たちの活動を「聖戦」として正当化できるからである。総括として宮坂氏は、米国の「対テロ戦争」が効果を収めたのは同時多発テロの後、本土での大規模テロを防いだ、という一点に限られる、と評価した。

 最後に、保坂修司氏は「カーイダの現状」で、ターリバン機関紙や広報ビデオ、過激派が集まるインターネット掲示板などに基づいて、カーイダの現状を発表した。

 まず保坂氏は、ターリバンとカーイダ双方が、自らの機関紙でアフガニスタンにおける攻撃の「成果」を公表していることに注目する。公表された「成果」を分析して、アフガニスタンでの攻撃が両者とも南部・南東部で多い傾向を明らかにした。ただし、保坂氏は機関紙や広報ビデオの信頼性には疑問を呈する。ロケット弾一発を打ちあげるだけで「成果」として数え上げている例もあり、総じてカーイダからは同時多発テロ以前のように大規模な作戦を展開する能力は失われている、と評価された。

 カーイダが今、重視しているのはメディア戦略である。カーイダは機関紙を発行するほかにビデオプロダクションを抱えて広報ビデオを作成し、インターネット・アップローダーやインターネット掲示板を通して流通させている。さらに保坂氏は、広報ビデオにカーイダ幹部が登場する回数の分析から、アイマン・ザワーヒリーら特定の人物が「顔」になっていることを検証した。また、これらの広報ビデオの内容から、ウマルを頂点とするターリバンとカーイダの階層構造が想定された。

 最後に保坂氏は、カーイダが打ち出すメディアの分析を通して、ジハード主義が任侠道、ナショナリズム、オタク的資質、マルクス・レーニン主義という四つの性格を抱えていると論じた。一見奇異に聞こえる「任侠道」は自爆テロ直前の遺言ビデオで見られる美学の吐露や決めポーズから、「オタク的資質」は情報技術の駆使に熟達している点や掲示板でのハンドルネームが日本のロボットアニメに登場する名前になっていることなどから、それぞれ見いだせるという。

 報告後の議論の俎上には、例えば次のような話題が載った。

 ・ジハード主義者らは、戦闘時のムスリムの巻き添えを、どのように解釈していたか。

 ・「ターリバン化」という言葉が、キャッチーさに引っ張られて濫用されている。

 ・ターリバンはジハード主義を標榜しつつも、パシュトゥン人というエスニシティを超克していないのではないか。

 極限まで悪化した治安状況や国際テロ組織といった、極めて研究の難しい領域に果敢に接近していく発表は真に迫っていた。同時に関係諸国の思惑をも視野に入れた本ワークショップは、アフガニスタン情勢の総合的な理解可能にする格好の機会だったと言えよう。



報告者:(吉川洋・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)



KIASユニット1・東京外国語大学科学研究費補助金「現代アジア・アフリカ地域におけるトランスナショナルな政治社会運動の比較研究」(代表:酒井啓子)共催研究会
(9月24日 於京都大学)

発表題目:Challenges of Democratic Transition in the Arab World
発表者: Amr Hamzawy (Carnegie Endowment for Peace)


 「アラブ世界における、民主化への試み」と題された本報告では、近年のエジプトを具体例として取り上げ、これまでのアラブ政治研究における民主化論の問題点と、それに変わるアプローチが提唱された。

 アラブ世界は、1970年代以来の「民主化の波」(S・ハンチントン)に取り残された地域として、しばしば「アラブ例外論(Arab-Exceptionalism)」の名のもとに、その特殊性が強調されてきた。まず発表者であるHamzawy氏は、こうした「アラブ例外論」の説明に際して、特に(1)文化的要因からの説明、(2)社会経済的要因からの説明がなされてきたと指摘する。氏はこうした単一的アプローチに拠ることの問題点を指摘した上で、それらに変わる、多様な要因を加味した多元的アプローチが取られるべきことを強調した。

 本発表ではその事例として、2004年以降のエジプト政治が取り上げられた。具体的には、ムバーラク政権が起用した政策とその変化に着目し、そうした政権の介入が、エジプトの民主化にいかなる影響を与えたかを考察した。その際、氏はエジプトの民主化状況を、2005年を境とし、二期に分けて説明した。

 まず、2004年から2005年にかけてであるが、この時期は、「キファーヤ運動」や、人民議会選挙におけるムスリム同胞団系議員の躍進などに代表されるような、民主化の急速な進展時期として位置づけられた。一方、2005年から2008年にかけては、こうした民主化の著しい進展に脅威を感じた政権によって、非常事態令の延長案可決(2006年)、反テロ法・宗教政党の禁止などを定めた憲法改正案の可決(2007年)などがなされるなどの、民主化が後退する時期となった。

 しかし、2004から2005年にかけての、いわゆる「民主化進展期」にあっても、氏は、「結局はムバーラクが大統領になることは予め定められていた」として、エジプトの民主化が政権の思惑に決定的に影響されていることを指摘した。そして、米国を中心とした海外からの民主化圧力には限界が存在しており、エジプトの民主化には、内発的な動きが必要であるとの結論を下した。

 本発表の修了後には、エジプトにおける市民社会のあり方や、民主化にあたっての社会的軋轢などに関して、様々な質疑応答が行なわれ、活発な論議が展開された。

報告者:(千葉悠志・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット2「中道派」/ 大阪大学「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクト共催研究会
(2008年7月27日 於大阪大学)

発表題目:「トルコ共和国初期におけるイスラーム復興――ネジップ・ファーズル・クサキュレッキを中心に――」
発表者:伊藤寛了
発表題目:「トルコの「イスラーム運動」の志向性と「世俗主義」観――ギュレン運動を中心に――」
発表者:幸加木文


 2008年7月27日に、大阪大学世界言語研究センターにて、「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクトとの共催で、KIASユニット2「中道派」研究2008年度第1回研究会が行われた。本報告は、同研究会における伊藤寛了氏による発表「イノニュ時代(1938-1950)のトルコにおける『イスラーム復興』と中道派」の内容を報告するものである。
 伊藤氏は、発表の主眼となるイノニュ時代(1938-50)の分析に入る前に、まずそれに先立つアタテュルクの時代(1923-38)に国家による上からの急激な世俗化及び近代化の促進と、それに伴うイスラームの地位低下を確認する。次いでイノニュの時代を複数政党制が導入される1945年以前の前期と以後の後期に二分して分析を試み、前期においては汎トルコ主義が高揚する反面でイスラームがあまり強調されなかったのに対して、後期になると複数政党制の導入に象徴される一連の民主化、西洋化、共産主義の隆盛という流れを受けて、トルコ社会におけるイスラームの価値・理念が相対的に強まっていったことを、同時期の宗教教育の実践や宗教結社の増加から指摘する。
 後者の具体的な事例として、伊藤氏は、同期に刊行されていたネジップ・ファーズル・クサキュレッキ創刊の『ビュユック・ドウ』誌と、オメル・ルザー・ドールル創刊の『セラメト』誌を取り上げ、前者が①道徳の崩壊、②西洋主義への反発、③トルコ民族主義とイスラームの関係、④宗教教育といったイシューを、後者が①世俗主義、②宗教教育、③共産主義、④民族主義、⑤近代化といったイシューを取り上げていた点を解明し、2つのメディア媒体から後期イノニュ時代にすでにトルコにおいてイスラーム復興が可視化していたことを実証的に明らかにした。
 伊藤氏によるこのような報告に対し、会場からは①現在のトルコも世俗主義の枠内でイスラーム復興を目指していると理解してよいのか、②雑誌の発行部数や当時のメディア市場はどうであったのか、③両雑誌におけるスーフィズムの位置づけとイスラーム復興の関係などにかんする質問やコメントが寄せられ、闊達な議論が展開された。
 現代イスラーム世界における「中道派」勢力を解明することを通じて穏健で草の根のイスラーム復興の実相に迫ろうとする本研究会の趣旨において、伊藤氏による発表は近代トルコにおけるイスラーム復興の事例から1つの視座を提供するものであり、極めて有益なものであった。

報告者:(平野淳一・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット1・TIASグループ2パレスチナ研究班共催研究会
(2008年7月25日 於京都大学)

発表題目:韓国でのナショナリズムをめぐる議論の新たな動向:林志弦論文から
発表者:文 京洙(立命館大学)
発表題目:ナクバ国際シンポジウムおよび「パレスチナと東アジア」研究会の概要説明
発表者:岡 真理(京都大学)


 本研究会は、今年の12月に東京・広島・京都の3か所で開催予定の国際シンポジウム"Nakba after 60 Years: Palestine Question and the Contemporary World"の中の京都セッション"Narrating Nakba: Palestine and East Asia"の準備研究会として位置づけられている。第1回目となる今回は、冒頭に仁子寿晴氏(京都大学)より国際シンポジウム全体の概要と目的について説明がされた。続いて岡真理氏(京都大学)と文京洙氏(立命館大学)の2名による報告が行われ、最後に全体討論となった。文氏は現代韓国の政治社会の専門家であり、12月の京都セッションでは東アジアの事例として、1948年に韓国・済州島で起こった四・三事件について報告を行う予定である。

 岡氏の報告の主旨は、パレスチナ人にとっての「記憶の場」であるナクバをどのようにすれば世界化できるのか、ということであった。その前提として、まずはナクバとはいかなる経験であったのかを再検証し、かつそれを絶対視しないために他の事例を参照する必要があるということが指摘された。そして、そのための枠組みとして岡氏は「関係論的アプローチ」を提示した。「関係論的アプローチ」とは、相互に異なる関係性の中に相同的アイデンティティを見出すことでナショナル・アイデンティティの脱構築を図るという方法である。本研究会の文脈に即して言えば、ナクバと四・三事件におけるナショナルな記憶を再構築し、そこに普遍的な共通項を見出すということになる。続いて行われた文氏の報告では、林志弦氏(韓国・漢陽大学史学科教授)による論文を題材に、韓国での近現代史認識をめぐる新しい動向が論じられた。林論文は、国民国家に対する批判的な立場から、日本のナショナリズムと表裏一体の関係にある韓国ナショナリズムのあり方を指摘している。文氏によると、林氏に代表されるような歴史観・ナショナリズム観の変化により、韓国では長らくタブーとされてきた四・三事件に対する見方が変化しているという。

 全体討論では、ナクバのどのような側面をこれから取り上げていくのか、また四・三事件を比較対象として論じることの意義は何か、という2つの点が主な争点となった。前者ではナクバにおける被害と加害の重層性、そしてナショナルな記憶としての「ナクバ」の陰に隠れている個人の記憶をどのように扱うか、ということが問題とされた。このような問題はナクバだけに限らず広範に現れる問題でもあり、そのことが後者の四・三事件を扱う意義とも関わっている。四・三事件とパレスチナを同時に論じることが必然でないとしても、そのような試みは思考実験の場として価値があるのではないか、というところで議論は落ち着いた。

 本研究会は12月のシンポジウム開催までにあと数回開かれる予定である。このような切り口でパレスチナ問題が論じられることはまれであり、そのアプローチはパレスチナ研究者以外にも大きな示唆を与えるものではないだろうか。

報告者:(今井静・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



大阪大学「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクト・KIASユニット1共催 研究会
(2008年1月31日 於大阪大学)

発表題目:パキスタン情勢の現在
発表者:山根 聡(大阪大学世界言語研究センター准教授、京都大学拠点ユニット2責任者)
発表者:萬宮 健策(大阪大学世界言語研究センター講師)


 ユニット2は各地域の現況を把握しておくことをユニット活動の柱の一つとしている。今回の報告はパキスタンに関してなされた。パキスタンは,中央アジア地域と政治・経済的に深くかかわっており,同国の安定は中央アジアを含めた地域全体の安全保障に影響を与える。昨年末のブットー元首相暗殺を含む同国情勢の流動化は,地政学上大きな懸念となっていること、さらに2月18日に行われる予定の総選挙の結果如何によってパキスタンにおける「中道的」在り方に変化が生じる可能性があるため,山根氏、萬宮氏2名による事前報告が行われた。報告ではまず,パキスタン建国以降の政治情勢が概観され,「啓蒙的穏健主義」としての中道派的志向を目指すムシャッラフ政権の現状が紹介された。

 続いて萬宮氏は,パキスタンにおける総選挙の具体的な方法について過去の選挙の写真や資料を紹介しながら報告した。報告に対し,参加者である在カーブル日本国大使館員から,ムシャッラフがかつてトルコに在住した経験から,トルコのアタテュルクのような改革を目指しているのではないかとの指摘がなされた点は非常に興味深いものであった。

報告者:(山根 聡・大阪大学)



文部科学省「世界を対象としたニーズ対応型地域研究推進型事業: 中東とアジアをつなぐ新たな地域概念・共生関係の模索」プロジェクト・KIASユニット2共催 研究会 (2008年1月28日 於京都大学)



発表題目:Democracies, insurgencies and terrorism, and peace building
発表者:Anthony Oberschall(University of North Carolina)


 ユニット2としては少々毛色が異なる研究会となった。発表者のノースカロライナ大学名誉教授Anthony Oberschall氏は1970年代から資源動員論などで有名な、社会運動研究の代表的研究者であり、論文 "Theories of Social Conflict," Annual Review of Sociology 4 (1978), pp.291-315が邦訳(塩原勉編 片桐新自・牟田和恵・大畑裕嗣・鵜飼孝造訳・著『資源動員論と組織戦略』新曜社、1989年、51-91頁)されるなど日本でもよく知られている。





大阪大学「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクト・KIASユニット2共催 研究会
(2008年1月25日 於大阪大学)

発表題目:イスラーム思想の再構築――時代における要請とインド・ウラマーの視点
発表者:ムイーヌッディーン・アキール(大阪大学世界言語研究センター特任研究員)
発表題目:トルコにおける中道派の射程
発表者:澤江史子(東京外国語大学)


 2008年1月25日、大阪大学世界言語研究センターにて、民族紛争の背景に関する地政学的研究中央アジア班第8回研究会との共催でKIASユニット2「中道派」研究会が行われた。10月26日に行われたユニット2研究会は、本格的に「中道派」とは何かを問う研究会であった。本研究会はその問題を扱う第二回目の研究会ということになる。イスラーム運動やイスラーム思想、あるいはイスラーム政党には中道派や急進派、また穏健派などのカテゴリーが存在する。しかしそれは、その主義主張に示される思想的立場に着目してカテゴライズするのか、それとも行動様式に着目してカテゴライズするのかによって、当然のことながら差異が生じるであろう。またカテゴライズの問題とは別に地域的な差異も考慮に入れなければならないだろう。こうして「中道派」を把捉することにはさまざまな困難が生じるのである。それゆえ、同研究会のテーマであるイスラームにおける「中道派」をどのように捉えるのかという問題が第一義的に立ち上がってくる。これが前回の研究会で出された問いであった。こうした問いに対する、好対照な二種類の回答が本研究会でなされた。

報告者:(黒田 賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)

 最初の発表はムイーヌッディーン・アキール氏による「イスラーム思想の再構築――時代における要請とインド・ウラマーの視点」である。アキール氏は現在大阪大学言語研究センターの特任研究員として来日中であり、近現代南アジアのイスラーム復興潮流にかんする該博な知識を備えたパキスタンを代表するムスリム知識人である。イスラーム世界における「中道派」勢力を解明することで穏健的な草の根のイスラーム復興の実相に迫ろうとする本研究会の趣旨に賛同してくださり、発表の労をとられた。なおアキール氏には来年度京都大学拠点の拠点構成員に就任していただくことになっている。以下にそのあらましを述べる。

 発表の要諦は、近代西洋との邂逅を迎えたイスラーム世界、特にインド亜大陸において、イスラームに新たな解釈が施されていく流れを丹念におさえていくことであった。注目に価する人物として、シャー・ワリーウッラー、サイイド・アフマド・ハーン、マウラヴィー・チラーグ・アリー、アースィフ・ビン・アリー・アスガル・ファイズィー、ムハンマド・イクバール、サイイド・アブドゥル・ラティーフといったイスラーム思想家を取り上げ、彼らの思想にはイジュティハードの奨励とイスラーム法の重視が通底していること、そのような共通点を持ちながら時代時代の要請に柔軟に対応したイスラーム思想の構築・再構築が目指されたことを明らかにした。そのなかで興味深い点を二点指摘しておく。(1)やはり南アジア最大の思想家イクバールによるイスラームの体系的再解釈と現代的再構築に関して多くの時間が割かれたが、イスラーム国家において議会における決定はイジュマーによってのみ成立すること、その意味でイクバールが近代西洋の民主主義を肯定的に捉えていた可能性があると指摘された。(2)またラティーフは独特のイジュティハード論をもっており、イジュティハードを行うためには(あらゆる分派に共通するハディース集を作ることを目的とする)ハディース考証学の再開と再編纂が行われなければならないと考えていた。特に(2)の考え方が他の地域にも見られるのかどうかは南アジアの中道的思想の特質を見定めるうえで重要であると感じた。

 質疑応答は多岐にわたったが、もっとも重要なものだけを取り上げる。本発表の中道派研究としての意義についてである。アキール氏が近現代パキスタン思想史を概観するなかで、中道派として抽出したのは、現状の伝統を認めつつ国家や国民、社会のあり方といった変革要素を措定して柔軟に時代の要請に応えていく人々であった。ここで重要なのは「現実に対応する柔軟さ」である。たとえばこの定義によると急進派は現状を一切拒否して秩序の転覆に乗り出す強行的で硬直した姿勢をとる人々となる。さしあたりの規定としてかなり重みのある中道派の捉えかたであるが、これがどこまで妥当するのかを検証することがわれわれユニット2の責務であろう。

報告者:(平野 淳一・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)

 澤江氏による発表は現代トルコのイスラーム政党によって「中道派」の一つの在り方を提示するものであった。発表者がトルコの実情に即した「中道派」規定を提示しようとするのは、イスラーム運動研究におけるトルコ特殊論というべきものが存在するからである。思想的に見ても、いずれのイスラーム政党も極端な主義主張は行わず、また行動様式から見ても、いずれも政党という民主主義的な枠組みによって行動するので、現代トルコで展開されているイスラーム政党の活動はみな中道派に含まれてしまうことになる。しかし諸政党はみな同じかと言えば、そうではない。トルコのなかにトルコ特有の中道派的な存在がありうる可能性は十分にある。それゆえ現代トルコにおける「中道派」の分析枠組みの設定が必要となってくるのである。

 発表者は、トルコ特殊論を脱却するとともに、イスラーム運動全体の新たなマトリクスを提起するために、宗教経済学における市場理論を一つの視座として提示する。しかしそれは各運動や政党に対して、いわば先取りされた分類基準が使用されており、完全に実情に則しているとは言い難い。そこで発表者はトルコにおいて最も「中道派」と考えられる「公正と発展党」を具体的事例としてそこに新たな基準となりうる「中道性」をあぶりだそうとした。

 トルコにおけるイスラーム政党がみな行動様式的に中道派に分類される。その点では公正と発展党も例外ではない。また思想的観点から見ても、世俗主義でも、極端なイスラーム主義でもないので何の変哲もないように見える。しかし同党が主張する政教分離を見ると、リベラル性を表しているというよりも、イスラーム的であることを放棄しているようにみえる。たとえば、かれらはイスラーム政党でありながら、ムスリムも非ムスリムも同党に参与しうる政党を目指している。

つまり、同党が自らを位置づける際には、世俗主義でも極端なイスラーム主義でもないというネガティブセンテンスによる自己の位置づけを試みるのではなく、世俗主義やイスラーム主義を超克し、両者を包摂する立場としての自己の位置づけを行っていると解釈することができる。このような両者の立場を包摂、あるいは超克する立場こそが、発表者によるトルコにおける「中道派」であった。

 質疑応答においては、トルコの政権与党である公正と発展党をモデルとした発表者の提案が他地域のイスラーム運動に対しても適用可能かと言った問題を中心にして、議論が展開された。前回の研究会で横田氏が言及したエジプトのワサト党ももしかしたら、同じように考えられるかもしれない。われわれはこれまで「中道」とは両極端を排除したものだと考えてきたが、両極端を包摂する「中道」がありうることには気づかなかった。公正と発展党という事例の面白さにとどまらない理論的な豊潤さをもたらす発表であった。

報告者:(黒田 賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)



KIASユニット1・京都大学東南アジア研究所共催研究会
(2008年1月23日 於京都大学)

発表題目:Financing Devotion: Economic Histories of the Southeast Asian Pilgrimage to Mecca
発表者:Eric Tagliacozzo (CSEAS visiting fellow / Associate Professor, History Department, Cornell University)


 本研究会は、イスラーム世界における東南アジアと中東地域とのネットワークを題材とし、東南アジア研究所との共催で行なわれた。東南アジアと中東地域とのネットワークはユニット1の研究のなかの大きな柱の一つである。今回は東南アジア研究所客員研究員であるコーネル大学准教授エリック・タグリアコッツォ氏に「東南アジアからのメッカ巡礼に関する経済史」というタイトルで報告していただいた。タグリアコッツォ氏の報告は19世紀中盤以降のマレー・インドネシア世界を中心に次の五つの局面を経済的分析の対象として行われた。

(1)現在のインドネシアにあたる、旧オランダ領東インドにおける巡礼者数、巡礼者パスの発行数、およびその価格の変動とオランダ政府による対イスラーム政策、外交政策との相関性(1872-1878)。

(2)英領マラヤ、および海峡植民地(現マレーシア)からの巡礼者数、費用の変遷(1923-1939)。
(3)現代インドネシアにおける、航空機を用いた巡礼者数、航空会社の収入、一人当たりの費用の変遷(1974-1982)。
(4)1990年から2004年までの巡礼パッケージツアーの最低、最高価格の変動(シンガポール宗教評議会資料による)。
(5)マレーシアの3つの旅行会社が提供する小巡礼パッケージツアーの価格比較。

 以上の巡礼をめぐる経済的変容から、氏は当時の巡礼が、植民地政府の対イスラーム政策、植民地経済の変動に大きく影響され、そして現在は巡礼が「ビジネス化」の波に飲み込まれているとまとめた。氏の発表を受けて会場では活発な質疑応答、議論が行なわれた。

 かつて何ヶ月もの月日をかけ、幾重もの困難にさらされながら海を渡る巡礼は命がけであった。それゆえ巡礼を成し遂げることがムスリムにとっての最高の名誉であった。だが、航空機の使用などにより現在の巡礼は簡素化傾向にあり、さまざまな旅行会社、航空会社が巡礼産業へ参入することによって「ビジネス化」が著しくなったのである。東南アジア・イスラームが世界最大規模のムスリム人口を擁するという点からみて、巡礼と経済という人口に左右される二つの要素に着目した点で貴重な研究会であった。

報告者:(木下 博子・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)



KIAS 「イスラーム基礎概念研究セミナー」(東京大学グローバルCOEプログラム「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」との共催)
(2007年12月25日 於京都大学)

発表題目:Limits of Rationality in Muslim Experience
発表者:Karim Douglas S. Crow (Nanyang Technological University, Singapore)


 第二回イスラーム基礎概念セミナーは、シンガポールの南洋理工大学(Nanyang Technological University)のカリーム・クロウ氏(Karim Douglas S. Crow)を招聘し行われた。本発表では理性(`aql)を題材にイスラームの思考のあり方が論じられた。特に初期イスラーム思想史では伝承と理性の対比構造で語られることが多い。クロウ氏はその図式にのりながら、伝承(主にハディース)と理性の二つの極の間にイスラーム的な思考が位置づけられること、伝承の極の代表的なものとしてハシュウィー派があり、理性の極には代表的なものとしてムウタズィラ学派や哲学者たちがいること、さらに上記の二つの極の中間に位置する立場としてアシュアリー学派を例に挙げた。アシュアリー学派は人間の行為について(神だけが創造するものでもなく、人間だけが生み出すわけではないことを説明するために)獲得理論を唱え、また、クルアーンの擬人的表現については、「いかにと問うことなく」(bi-la kayfa)受け入れた。この第三の立場は信仰と理性、啓示と理性がうまく調和した例である。さらに哲学者側の人間としてAbu al-Hasan al-`Amiri(d.991)が引かれ、かれの場合でも信仰と理性、啓示と理性のバランスがとれていることが確認された。

 クロウ氏の主張は、イスラームにおける一般的な思考のあり方が、なんらかの極に寄ったものではなく中間の立場だということである。質疑応答において、イスラーム哲学史に関する質問の他、仏教との比較の観点から質問もなされ、発表者と参加者の間で活発な意見交換が行われた。

報告者:(安田 慎・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)



KIASユニット4・SIASグループ3共催研究会
(2007年12月22日 於上智大学)

発表題目:現代モロッコにおけるスーフィズムと権力
発表者:斉藤剛(日本学術振興会特別研究員)


 本研究会は「スーフィー・聖者研究会」(KIASユニット4とSIASグループ3)第3回研究会にあたる。今回はアフリカ、特にモロッコとエチオピアを対象とした。

 斎藤氏は、「現代モロッコにおけるタリーカと権威――タリーカ・ブーチシーヤを中心的事例として――」と題して報告を行った。本報告は、現在モロッコにおいて最も大きな勢力を持つ教団とされるタリーカ・ブーチシーヤの紹介を通して、その勢力展開の背景、およびシャイフの権威がどのような基盤によって支えられているのか、などについて考察を加えたものである。

 18世紀半ばに創設されたタリーカ・ブーチシーヤは、カーディリー系の教団で、現在モロッコ東部ウジュダ近郊のマダーグに本拠地を置く。同教団は創設以来、歴代のシャイフのもと他教団との関係を維持しながら発展を遂げ、1960年代以降、都市におけるタリーカ復興とともにモロッコ全土に影響を及ぼすようになった。2000年初頭には、数万人の教団員を有したとされ、そのような教団の勢力拡大の背景には、青年層や高級官僚、大学教員、役人などの知識人層への浸透、出稼ぎ移民を媒介としたヨーロッパ諸国など海外への普及、メディアへの露出が挙げられるという。また、成員を補充するための施策も教団発展の重要な要因となったと指摘している。具体的には、おもに教団による教育や啓蒙活動の強化、新入会者のための合宿、夏季スーフィー大学の開講、公の場における数珠の所有や髭を強制しないなど、タリーカに付随する一般的なイメージの転換である。

 報告者は、さらにシャイフの正当性を示す根拠についても論じた。中でも強調されるべきは、モロッコ東北部において同教団が、ダルカーウィーヤやティジャーニーヤとの関係を主張した一方で、アラーウィーヤとの関係についてはこれを可能な限り忌避したという点にある。報告者によれば、前者は、ブーチシーヤのスーフィズムとしての正統性を表明するための手段であり、後者については、すでに同地域で確固たる基盤を樹立していたアラーウィーヤへの警戒心に起因する。ブーチシーヤは、他教団との接触の有無を意図的に操作することによって、シャイフの権威確立を促したとされる。

 以上のように、斎藤氏は、タリーカ・ブーチシーヤの創設から現在までの教団発展の歴史、シャイフの素描、教団の組織や儀礼などを詳細に分析、紹介するとともに、自身の現地調査にまつわるエピソードも披露された。報告後も参加者からさまざまな質問が寄せられ、それに関する議論も活発に行われた。本報告は、モロッコの事例を通してタリーカを理解するための新たな視点を提示した貴重な報告であった。

報告者:(関 佳奈子・上智大学大学院)


発表題目:An ethnomusicological study of the Islamic rituals of Harar, Ethiopia
発表者:Simone TARSITANI(日本学術振興会特別研究員)


 Tarsitani氏の発表は、タリーカや民衆文化において多く見られるズィクルについて、エチオピアの北東部にあるムスリムの街、ハラールの事例からその特徴を論じるものであった。

 発表者は発表において、大きく二つの点を取り上げた。まず第一点がハラールにおけるズィクルの特徴を、音楽的な観点から明らかにすることであった。第二点が、ズィクルのハラール社会や文化に与える影響についてであった。

 第一点については、ハラールにおけるズィクルの様子を、発表者が長期のフィールドワークで収集した映像や画像データを用いながら説明した。それによると、ハラールのズィクルにおいて際立つ特徴は、そのリズムとメロディーにあると指摘した。ハラールのズィクルは太鼓や楽器を使って一定の独特のリズムを刻みながら、決まったテクストを全員で読み上げていく。リズムやメロディーにはこの地方独特のものが見られる一方、五音の音階が主流であるこの地方では珍しく、七音の音階で構成されたメロディーを持つ点を明らかにした。このように、他の地域にはないハラール独特のズィクルのあり様について、発表者は映像や音声データ、楽譜を用いながら明らかにしていった。

 第二点については、近年ズィクルがハラールの文化を代表するものになってきている点を指摘した。その背景として、19世紀以降ハラールがマイノリティとなっていった点や、1990年代以降に見られる文化復興や、伝統文化に対する態度が変化してきている点をあげた。こうした状況下で、ハラールの人びとがズィクルを、自分たちの文化やアイデンティティを代表するものとして捉えるようになった、と発表者は論じた。

 ズィクルは従来タリーカや民衆の文化として一括りにとして捉えられることが多かった。しかしながら本発表は、ズィクルがハラール的な特徴と、それが地域文化としてハラールの人びとに影響を与えている点を明らかにした。これは、従来とは異なる捉え方である。さらに、ズィクルの分析では、身体的パフォーマンスや意味が重視され、音楽的な分析が今までされてこなかった。その点、本発表はハラールという一事例でありながらも、ズィクルの音楽的な分析を行ったおもしろい発表であった。

報告者:(安田 慎・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究)



KIASユニット1・TIASグループ2パレスチナ研究班共催ワークショップ「国連パレスチナ分割決議案<再考>――60周年を機に」
(2007年12月1日 於京都大学)



発表題目:「冷戦開始期における米ソの奇妙な協調-国連パレスチナ分割決議採択にいたる国際政治過程-」
発表者:木村修三(前姫路獨協大学学長)
発表題目:「ピール報告から181号まで」
発表者:奈良本英佑(法政大学)


 今年2007年は、1947年11月28日に国連総会でパレスチナ分割決議(国連総会決議181号)が採択されてから60周年に当たる。パレスチナ問題の直接的な起源となったこの国連決議とは何であったのかを、冷戦開始直後の国際政治状況、とりわけ英米ソなどの大国のパレスチナ問題に対する姿勢と中東域内政治、アラブ諸国の域内情勢、パレスチナの状況などを踏まえつつ再考しようというのがこのワークショップの目的であった。

 冒頭で臼杵陽・日本女子大学教授から「趣旨説明」が20分程度行われた。そこではパレスチナ分割決議案の問題性が、<分割>という発想の問題性・米英大国の対応の責任の問題性・米ソ冷戦とパックス・ブリタニカの間隙で起こった問題性・分割案採択の不透明さの問題性・当事者の位置づけの問題性・分割案におけるエルサレムの地位の問題性、の6点に整理されて論じられた。

 報告Ⅰ「冷戦開始期における米ソの奇妙な協調――国連パレスチナ分割決議採択に至る国際政治過程――」は木村修三・前姫路獨協大学学長により行われた。そこでは第二次大戦終結時の中東をめぐる米英ソ関係、国連特別総会におけるパレスチナ問題の審議、グロムイコ演説の衝撃、国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)報告の審議について詳細な説明があり、何故ソ連は分割案を支持したのかという問題提起で結ばれた。木村前学長はソ連のイスラエル承認の迅速さについて考えられる要因を挙げながら、クレムリンの史料が公開されつつある現在、ソ連の国益に何故イスラエル承認が合致したのかをロシア語を駆使して研究する価値があるという将来に向けての課題を示された。



 報告II「ピール分割案から181号へ」は奈良本英佑・法政大学教授により行われた。そこではピール委員会の分割案に始まり国連分割決議に至る過程で浮上した、パレスチナの将来の政体に関する様々な提案が検討された。中でも国連パレスチナ・アドホック委員会の第二小委員会の提案の意義に注目した。奈良本教授が冒頭で、平和運動家ウリ・アヴィネリの国連分割決議への肯定的な評価に違和感を覚えたと話されたのが印象的であった。

 続く「コメント」は板垣雄三・東京大学名誉教授と小杉泰・京都大学教授によって行われた。板垣名誉教授はこのようなワークショップにはパレスチナ研究者だけではなく、他分野の研究者にも広く参加してもらうことが必要なのではないかということ、そしてイスラエル建国が国連決議181号に基づいていたのではなく、それの破壊の上に行われたという事実の確認が必要であるとした。また何故分割なのか、分割論議の土台は何かという基本的な論点をはじめ、国連分割決議案の検討を具体的な経過の検証にとどまらず、反ユダヤ主義・労働シオニズム・国民国家・植民地主義・国際秩序・ロシア革命の問い直しなどより幅広い観点から行う必要があること、ラテンアメリカ諸国の決議支持を理解するためにヴァチカンの議論を検討する必要があること(カトリシズムと国際政治)、ユダヤ人入植と満蒙開拓団の類似性など日本からの視野も重要であることなどにも言及された。小杉教授は国連分割決議を考える際に、来年はパレスチナ人にとっての「ナクバ」60周年であること、また今年は1967年戦争から40周年、1987年のインティファーダ勃発から20周年という節目の年であることを強調された。更に分割概念は歴史的に見るとイスラエル建国の礎石として使われ、実態としては単一のイスラエル国家への道であったこと、そしてその単一の実体としてのイスラエル国家が究極的に実現したのが1967年戦争における占領地の獲得であったと振り返った。そこで分割に戻ろうという動きが国連決議242に結実するのだが、それでは何故1947年時点で分割をしておかなかったのか。それはアラブ側にとって当時はまだ「不義」の質が分からなかったためである。このように論じられた上で、ホロコーストというヨーロッパの罪の償いをパレスチナ人に負わせた不正義を不問に付した国際社会の大きな責任に言及され、分割案は試行錯誤の結果もはやうまくいかないのではないかという問題提起で結ばれた。

 最後に、報告やコメントを土台に30分ほど討論が行われた。1988年のパレスチナ独立宣言が基にしているのは国連決議181か242か、国連決議181をパレスチナ人側が十分利用していないように見えるがそれは何故か、植民地主義との関連でインドの民族運動とパレスチナ人の闘争の関連などについてのフロアからの質問に、報告者・コメンテーターの先生方が答える形をとり、閉会した。



報告者:(森 まり子・東京大学)



KIASユニット3「急進派」研究会
(2007年11月30日 於京都大学)

発表題目:現象としてのジハード主義―その史的展開と現状
発表者:保坂修司(近畿大学)
発表題目:イラクにおける急進派の系譜
発表者:高岡豊(中東調査会)


 前回研究会ではデータベース構築および研究計画についての打ちあわせだったので、今回が研究ユニット3の事実上第一回の研究会となる。まずユニット3責任者である保坂氏が、「急進派」の核になるであろう「ジハード主義」の考察を行い、ユニット3の研究のたたき台を作った。

 保坂氏は「現象としてのジハード主義」という題名の中の「現象としての」の部分にインターネットその他で入手した情報からさまざまな語句を入れこむことで「ジハード主義」を説明できるのではないかと提案する。たとえばジハード主義を標榜する人々は体制との関係でいうならば、体制に反抗して民衆の支持を得ている人々である。そこで「任侠道としてのジハード主義」という側面で切ることができる。任侠道からさらに男気、武器に対する偏愛などさまざまな語句が浮かんでくる。それ以外に、インターネット・パソコンに強い興味を示していることから「おたくとしての」が、また、あごひげ、ユニフォーム、日本語で言うと「夜露死苦」といった言葉遣いを好むことから「異形としての」も入りそうである。発表の前半は以上のようなプロファイリングと似た手法を使うことがジハード主義の解明に役立つのではないかという画期的な提案であった。翻って後半は手堅くジハード主義へのリクルートの仕方および再教育プログラム(脱ジハード主義プログラム)が詳しく紹介された。

 保坂氏の発表ではジハード主義を扱う手法が模索されていたのに対して、高岡氏の発表は急進派データベース作成に向けてという色彩の強いものであった。イラクの急進派を対象にすると言った場合、どの団体が急進派に当たるのかは難しい。だが個々の団体の思想信条、政策を顧みることなく「過激派」「テロリスト」「民兵」などと呼ばれている現状に追従するわけにはいかないので、なにがしかのメルクマールが必要である。高岡氏が提案する基準は以下3点である。①イスラーム的国家、イスラーム的統治を目指している。②その目的を達成するための第一の方法がジハードである。③立憲体制、議会制度を認めない(宗教的信条にもとづいて「政治過程」を拒絶する)。完全ではないにせよ、いったん何が急進派団体かが決まれば、あとはどのように観察するかが問題になる。急進派は離合集散が激しく、そこをどう掬いとっていくかが鍵になる。これは3段階に分けて行われる。(1)代表的な団体の相互関係を局面ごとに整理する(イラクの場合は大きく、諸団体の形成・関係模索期、動揺期、決裂・分裂期に分けられる)。(2)代表的な団体が発表する声明等から思想的背景や信条を示す情報を抽出する。(3)(1)と(2)の作業をもとに代表的な団体の思想的傾向と系譜を考察する。以上のようなガイドラインのもとに「イラク・イスラーム国」「アンサール・スンナ団」「イラクのイスラーム軍」「ムジャーヒドゥーン軍」「ファーティフーン軍」「ジハードと改革戦線」「イラク抵抗のためのイスラーム戦線」「ジハードと変革戦線」が主な団体として挙げられ、実際に考察が加えられた。

 実質第1回目の研究会ということで「急進派」ひいては「ジハード主義」のすべてが語られたわけではないが、これからの研究に明るい見通しがついた実りのある研究会だった。

報告者:(仁子 寿晴・京都大学/人間文化研究機構)



大阪大学「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクト・KIASユニット2共催 講演会
(2007年11月23日 於千里ライフサイエンスビル)

講演題目:「雲南のムスリムからみる中央アジア」
講演者:馬利章(雲南大学外国語学院アラビア語教育研究室主任 副教授)


 本研究会は雲南大学外国語学院の馬利章氏を講師として迎え行われた。馬氏の講演は13世紀のブハラ出身の元朝官僚、賽典赤・贍思丁(Sayyid Ajall `Umar Shams al-Din、1211~1279)を取り上げ、彼を仲介とした雲南と中央アジアの結びつきを主題とするものであった。

 賽典赤はブハラ出身で元朝官僚となった有名なムスリムである。彼は1274年に雲南に赴き、その手腕によって当地方の政治的安定を実現し、治水事業を通じて人びとの生活の安定と向上をもたらした。また当地方にはじめて定住したムスリムとしてモスクを建設し、人びとにイスラームを広めた存在でもあった。他方、儒教の普及にも熱心であり、彼によって儒教の教育機関も建設された。

 こうした彼の業績や人柄は現在でも雲南の多くの人びとの記憶に残っており、彼はムスリム、非ムスリムを問わず、現地の人びとに慕われる存在となっている。同時に、ブハラ出身であった彼の存在の記憶によって雲南のムスリムたちは中央アジアと自分たちの関わりを意識する。彼の存在を通じて、現在でも雲南のムスリムたちは活発に中央アジアの国々やイランとの交流を行っているのである。

 たしかに講演では賽典赤の理想化された像が語られたにすぎない。だが理想化された記憶のなかの賽典赤こそが、現代雲南においてムスリムと非ムスリム、および雲南と中央アジアを結びつける紐帯となっていることは充分に銘記しておくべきであろう。中国ムスリムの生き方は、ムスリムとしてのアイデンティティと中国人としてのアイデンティティという両端の間に位置する。単にどちらかを選択するというわけではない状況のなか、理想化された先人という要素が果たす役割を問うことは中国だけに限らず、さまざまな地域でも(もちろんその場合には両端は別のものになるが)応用可能な問いかけではないだろうか。

報告者:(安田 慎・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIAS 「イスラーム基礎概念研究セミナー」
(2007年11月22日 於京都大学)



講演題目:Quranic commentaries in classical Java and Sunda
講師:Ervan Nurtawab (Syarif Hidayatullah State Islamic University of Jakarta, Indonesia)


 本研究会は新たに作られた「イスラーム基礎概念研究セミナー」の第一回研究会として企画された。「イスラーム基礎概念研究セミナー」はユニットの活動とは別に、イスラーム理解に不可欠な概念をあつかうセミナーである。今回はインドネシアのシャリフ・ヒダヤトゥッラー・イスラーム大学よりエルファン・ヌルタワブ(Ervan Nurtawab)氏を招聘し、"Quranic commentaries in classical Java and Sunda" という題目で発表していただいた。具体的には18世紀から20世紀にかけてのジャワとスンダにおけるジャワ文字、ペゴン文字、アラビア文字のクルアーン翻訳(タフスィール)について、その地域別の使用言語と表記に用いられた文字の特徴が論じられた。

 まず「ジャワ語」と「ペゴン」について説明しておく。本研究会で用いられたジャワ語 (Javanese Language) とは古代ジャワ語を指す。古代ジャワ語はサンスクリット語からの多くの借用語を有し、その字形もサンスクリット語に近似しており、主に宮廷内で使用された言語である。他方、ペゴン語 (Pegon Language) とは、アラビア文字表記のジャワ語のことである。なお紛らわしいが、ジャウィー語 (Jawi Language) はアラビア文字表記されたマレー語を指す。この手のものには他に、中国ムスリムが使用する小児錦(アラビア文字表記の漢語)などがある。

 なお我々がタフスィールという語から通常連想するのはクルアーン注釈のことであるが、本発表では翻訳と注釈の両方を含み持つ広義の意味で使用されていた。

 本研究会では以下の3点がヌルタワブ氏から指摘された。第1に、当該地域におけるクルアーン翻訳には、アラビア語併記のものと、アラビア語が併記されていないものの2種類があるということ。第2に、ジャワにおけるクルアーン翻訳は大半がジャワ語を使用しており、マレー語やその他の言語が用いられているものは存在するものの、稀だということ。また、その表記は、ジャワ語とペゴンによるものがあるという点。第3に、スンダにおけるクルアーン翻訳は多くはアラビア語が併記されておらず、ジャワ語、スンダ語、マレー語、アラビア語を用いたものが発見されており、表記にはペゴンかアラビア語が用いられているという点である。その他、ジャワ語で書かれたクルアーンなどの貴重な資料、および解釈書のリストが紹介された。インドネシアの多様な言語環境のなかでクルアーンがさまざまな形をとっているわけであるが、どの表記・言語を使うのかに関しては歴史的な変遷が垣間見られることも併せて報告され、その要因はわからないところが多いものの、イスラームの地域化のさまざまなあり方、変遷として捉えることができるのではないか、という提言もなされた。

 本研究会は、クルアーン翻訳と使用言語という、東南アジアでのイスラームの受容を考察する上で大変貴重な発表であった。

報告者:(木下博子・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット1「国際関係」・京都大学大学院 人間・環境学研究科共催セミナー
(2007年11月14日 於京都大学)



講演題目:「パレスチナ問題における宗教者間対話~その可能性と展望~」
講師:
Shaykh Barakat Fawzi Abdul-Hasan (Lecturer in Islamic Studies, al-Quds University, Jerusalem)
Professor Jamal Khader (Chairman of Department of Religious Studies, Bethlehem University, Palestine)
Rabbi Professor Yehoyada Amir (Director of the Israel Rabbinic Program, Hebrew Union College, Jerusalem)


 本セミナーは、現地の宗教者が自身の宗教をふまえてパレスチナ問題の現状と可能性を議論するという趣旨で開催された。パレスチナ問題はユニット1「国際関係」にとって大きな研究テーマのひとつであり、翌12月には国内ワークショップも予定されており、それに向けての準備という側面もこのセミナーにはあった。

 講師としてユダヤ教のラビ、イェホヤダ・アミール氏、キリスト教の神父、ジャマール・カーディル氏、イスラームのシャイフ、バラカート・アブドゥルハサン氏の3名が招聘され、宗教者の立場からパレスチナ問題をはじめとする民族/宗教紛争に宗教が果たす積極的あるいは消極的な役割をどう捉えるのか、そしてパレスチナ問題の解決に宗教がどのような役割を果たすことができるのかの2点について語っていただいた。

 パレスチナ問題の現状については3者ともに、本来、領土問題やナショナリズムに起因する政治的・経済的な問題が、1960年~70年代に宗教的な言説が席捲し、宗教対立の様相を帯びるようになった点を指摘した。すなわち、一見、宗教紛争と捉えられるパレスチナ問題も、本当は政治・経済的な対立であることを見逃してはならない、ということである。

 彼らの議論から明らかになったのは、3つの宗教の対話、交流とその結果としての歩み寄り、言い換えると宗教「間」対話は可能であるという点であった。だがむしろ困難なのは宗教「内」対話である。というのは、現在それぞれの宗教内に穏健派から過激派までさまざまな考えが存在しており、ひとつの宗教の枠組みの中では捉えきれない状況にあるためである。こうした宗教「内」の考えの違いは容易に乗り超えられるものではない。「対話」への参加者は、宗教「横断的」な者たちであって、宗教「内」全てを包摂する勢力ではない。端的に言うと、宗教「間」対話に参加するのは、常に同じメンバーなのである。こうした現状がパレスチナ問題を複雑にしているというのが3者の考えであった。敷衍して言えば、パレスチナ問題にかぎらず、宗教「間」対話を行う際には常にこの問題がつきまとうと考えられる。

報告者:(安田 慎・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット1「国際関係」主催「イエメン宗教学校教師との懇話会」
(2007年11月19日 於京都大学)



講師;
Abudulrahman Ali Abobakr Balfaqih (タリーム研究出版センター センター長)
Zaid Abdulrahman Hussein Bin Yahya (ダール・アル=ムスタファ教師)
Omar Hussein Omar Al-Khateeb (ダール・アル=ムスタファ教師)
Abdulkarem Sheikh Abbod Ba Sharahil (ダール・アル=ムスタファ教師)
Muhammad Abdullah Ali Al-Aydarous (ダール・アル=ムスタファ教師)


 ハドラマウトはアラビア半島における、否、中東におけるひとつの文明の中心地であった。イエメン東岸部に位置する。アラビア半島南部の良港を有するハドラマウトは、古くからインド洋交易の一大拠点となり、西はアフリカ大陸の東海岸、東はインドネシアをはじめとする東南アジアにまで通商のネットワークを拡張し、それらの地域に商人を通じてイスラームを広めた。イスラーム「発祥の地」アラビア半島における、環インド洋世界へのイスラームの「出発の地」である。

 それは歴史的な物語であるだけではない。現在もなお、マドラサ(宗教学校)を中心的媒体として、強いネットワークを有している。

 本研究会の講師は、ハドラマウトのマドラサ、「ダール・アル=ムスタファ」の教授陣である。若手教師4名と、おなじくハドラマウトの文書館(タリーム研究出版センター)の責任者1名の計5名には、ハドラマウトの歴史、同マドラサの運営方針および方法、東南アジア諸国とのネットワークなどを中心に、詳細に論じていただいた。

 以下に報告と質疑にかんして、簡単にまとめておく。

 第1に、マドラサの歴史的な経緯にかんして。1967年に南イエメンに成立した共産主義政権時代において、ほぼ全てのマドラサ、宗教施設が閉鎖されたという。その期間には地下活動のような形で宗教教育が継続された。また、その後のマドラサの再編成などが、彼らの実体験を交えて明らかにされた。

 第2に、インドネシアの事務所を中心として、東南アジアに同マドラサ卒業生とのネットワークを有していること。ハドラーミーのネットワークが存在することはつとに指摘されてきたが、本研究会では、実際にこれらのネットワークをどのように構築し、維持しているかが明らかにされた。これは中東と東南アジアの関係を考えるうえでも、極めて大きな重要性をもつ。

 さらに、相互交流として、京都大学および同大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の研究・教育方針なども議論の俎上に上がった。

 最後に本研究会の意義をもうひとつ付け加えるとすれば、ほぼ全てアラビア語でディスカッションが行なわれたことであろう(一部通訳あり)。これによって、まさに「直接交流」となった。

報告者:(山尾大・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



京都大学地域研究統合情報センター・KIASユニット1「国際関係」共催「現代中東における国家運営のメカニズムに関する実証的研究と地域間比較研究会」
(2007年11月3日 於京都大学)

発表題目:「中東諸国におけるグローバリゼーションと政治体制の頑健性」
発表者:浜中新吾(山形大学)
発表題目:「現代イラクにおける国家体制とレジティマシー:バアス党権威主義期と戦後連立政権期」
発表者:山尾 大(京都大学)


 2007年11月3日、KIASユニット1「国際関係」は、京都大学地域研究統合情報センターとの共催で「現代中東における国家運営のメカニズムに関する実証的研究と地域間比較研究会」を開催した。当日は、 浜中新吾氏(山形大学)および山尾大氏(京都大学)による発表が行われた。

 はじめに、浜中氏の報告は「中東諸国におけるグローバリゼーションと政治体制の頑健性」と題し、グローバル化の波にさらされている中東のレンティア国家が政治体制を維持する仕組みについて明らかにした。分析枠組のたたき台とするAcemoglu - Robinsonモデルによると、経済のグローバル化は政治体制の民主化を刺激するという。しかしながら、中東のいわゆるレンティア国家では、経済の開放度はそれほど高くないため、政治体制へはあまり影響しないと考えられる。すなわち、経済が石油輸出などに依存しているため、それがいくら増加しても、グローバル化による民主化効果には寄与しないという理屈である。発表者自身の計量分析によっても、レント収入に依存している中東諸国は、民主化移行の効果が抑制されているという結果が出された。

 計量政治学による政治分析は、門外漢からするとなかなか理解しにくいものである。しかし、発表者が丁寧にその仕組みを説明したため、分析結果の手続きとその意義も理解しやすかった。本研究会が目的とする、ディシプリンと地域研究の統合にとって新たな視点が提供された。

 続いて、山尾氏は「現代イラクにおける国家体制とレジティマシー:バアス党権威主義期と戦後連立政権期」と題して、戦後イラクの国家運営メカニズムが、宗派・民族的動員に収斂している要因がサッダーム政権下の政治・社会状況からの一貫した状況にある点に注目して検討した。これは、戦後イラク政治を考えるときこれまでのイラク研究における「モザイク国家論」および「ナショナル・インテグレーション論」では捉えきれないとの問題意識による。すなわち、政治体制や政治動員のほとんどが宗派や民族に基づいて行われるようになり、国民統合が機能していないので、国家運営においてポストの分配は、実際には制度化されていない宗派や民族を基盤とするにようになったのである。同氏は、この状況をレバノンと対比して「制度化されぬ宗派主義」と名付ける。そして、宗派・民族コントロール制度が瓦解し、その結果、宗派・民族意識が先鋭化したこと、政治・社会的ネットワークがそっくりそのまま宗派・民族化されていること、さらに潜在的な社会亀裂にそって政治的動員がなされていることがその「制度化されぬ宗派主義」の背景にあると指摘した。

 混迷の続くイラク政治は、国家運営メカニズムの動態性を研究するための貴重な素材を提供する。山尾氏の報告は、膨大な一次資料の積み重ねと分析に基づいた、極めて実証的なものであった。今後のさらなる理論の精緻化が待たれる。

 両報告は、非常に対照的な報告であったといえる。まさに、ディシプリン研究と地域研究の架橋をめざす本研究会の目的に合致したものであった。

報告者:(堀拔功二・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット1「国際関係」 講演会
(2007年10月29日 於京都大学)



講演題目:Contemporary Yemen and Islam
講師:Ahmad al-Kibsi (Vice-President for Academia Affairs and Professor of Political Science, Sana'a University)


 KIASユニット1(国際関係)では、サヌア大学副学部長であるアフマド・キブシー教授を招き「現代イエメンとイスラーム」と題する講演会を開催した。イエメンは古くから交易の中心地であり、歴史的にさまざまな文化の受け皿となってきた。19世紀前半から東南アジア、インド、東アフリカへの移民が行われており、その子孫はハドラミーと呼ばれ、環インド洋ネットワークを形成している。また近現代史において国際関係の焦点になったことは記憶に新しい。イエメンはユニット1の重要なテーマのひとつであり、この講演会は外部からの視点ではなく、イエメン内部からの発言を聞く絶好の機会であった。

 ギブシー教授の祖父が1938年に訪日し、東京のイスラームセンターの建設に携わり、イエメンと日本の関係の強化に尽力されたという話はわれわれにとって驚きであった。日本とイエメンの関係はキブシー教授の祖父から始まったのである。

 本題では、イエメンの歴史、現代イエメン成立の過程、現在のイエメンの状況が主なトピックとなった。シバの女王の時代からイエメンは豊かな国であり、イスラーム的にも「信仰はイエメンからやってくる」といわれるように重要な土地であった。帝国主義時代にはイギリスに占領された南部のアデンを除いて外部勢力から完全に征服されることがなかったが、1962年のイエメン革命を機に、エジプトとサウディアラビアの代理戦争の場となってしまった。そして、冷戦の崩壊とともに南北イエメンの統合が行われる。このあたりの情勢はイエメンやアラブ世界を取り巻く国際関係と関連付けて語られ、イエメン人による世界情勢の解釈の一端が垣間見られた。

 現代イエメンは政党や選挙に基づいて運営されており、人権意識や民主主義が根付いてきたこと、また、サウディアラビアやオマーンといった近隣諸国との間に抱えていた外交問題も交渉を通じて平和的解決が図られていることがイエメンの現況として特に強調されていたのは興味深い。対外関係に関してはとりわけ4つのポイントが指摘された。第一に、GCC(湾岸協力会議)との関係(将来、GCCに加盟する可能性があるとのことである)、第二に「サヌア・グループ」と呼ばれるアフリカ諸国との関係、第三にパレスチナ問題を中心とするアラブ関係、第四に非同盟諸国や欧米との協調関係についてである。このような国内政治と国際関係のなかで、イエメンは安定的な国家運営が行われるようになったと締めくくられた。

 以上のように、地理的に湾岸諸国、それ以外のアラブ諸国、アフリカ東海岸、インドの焦点に位置するイエメンが、冷戦期の分裂状態から立ち直り、さまざま国と国際関係をとりもとうとしているさまが内部の視点から語られた。イスラーム世界の国際関係を研究するうえで貴重な証言を得ることができた講演会であった。

報告者:(堀拔功二・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



大阪大学「民族紛争の背景に関する地政学的研究」プロジェクト・KIASユニット2共催 研究会
(2007年10月26日 於大阪大学)



発表題目:「中道派形成におけるイジュティハード:1957-58年International Islamic Colloquium(ラーホール)におけるマウドゥーディーの見解」
発表者:山根 聡(大阪大学世界言語研究センター)


 本研究会は、KIASユニット2「中道派」の実質的な第一回研究会であり、当ユニットの研究課題であるイスラーム国際組織における中道派とは何か、中道派研究はいかなるかたちでありうるのかが主なテーマであった。まずユニット責任者である山根氏が中道派研究のテストケースとして20世紀における南アジアのイスラーム運動の先導的な担い手であったマウドゥーディーによるイジュティハード論を題材として示した。イスラームにおける中道派は先行研究では現代的な意味として急進派でもなく、世俗主義でもなく、しかもイスラーム復興を志向する積極的な改革派だと定義されている。もし中道派が国家と関係を持った場合、近代国家の枠組みのなかで、国家とイスラーム法の関係が問題となるため、イジュティハード論は不可欠な要素となる。発表者が、イジュティハードを(少なくとも国家とかかわる)中道派の形成の重要なポイントと考えるゆえんである。

 このような問題意識を前提に1957-58年にパキスタンのラーホールで開催された国際イスラーム・コロキアムとその場で発表されたマウドゥーディーのイジュティハード論が考察の俎上にのぼった。マウドゥーディーが考えるイジュティハードとは立法の方法として神の主権、預言者、クルアーンやスンナの解釈・推論・引用がない場合に行使されるものである。ここで重要な点は、そうしたイジュティハードの行使は神が人間に決断する権利を与えたことに基づくと解釈されていることであり、それは神の主権を人間が行使するということである。このようなマウドゥーディーのイジュティハード論に対しては、同時代的に様々な反応があり、彼に対して疑問・反論が投げかけられた。これらの疑問への回答において、マウドゥーディーのイジュティハード論はより明確な姿をあらわしている。畢竟、マウドゥーディーによる正しいイジュティハードとは、ムジュタヒド(イジュティハードを行う者)が社会の現実問題に精通していること、またイジュティハードに基づく立法を監視する機関の存在があること、その他多数の条件が満たされたものである。もしそれらの条件が満たされない場合、イジュティハードではなくファトワーに過ぎない。しかし、はたして彼の考えるイジュティハードはしっかりと輪郭がさだまった実行可能なプログラムになっているのか、それとも単に理念にとどまるものなのか。この問いは、マウドゥーディーのものにかぎらずイジュティハード(ひいてはイスラーム法)が国家形成のプログラムたりえるのかというもっと大きな問題につながっていく。発表者からは、中道派が国家形成と結び付いていくは南アジア特有の現象なのかという問いも出された。

 その後の質疑応答では、主に中道派を何と何の間の関係性のなかで捉えるのかという問題が議論された。中道とはたんに極端でないものを指すと考えれば、極端が何であるかによって中道派がどのようなものかは変わってくるからである。地域的歴史的にさまざまな中道派があったことが予想されるので、さまざまな用例を集めなければイスラームの中道派は語れないだろうということに議論は収束した。

報告者:(黒田賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



発表題目:「中道派のイスラーム復興運動―エジプト・ムスリム同胞団の思想と実践」
発表者:横田貴之(日本国際問題研究所)



 本発表の要点は、エジプトのムスリム同胞団にとって「中道」の意味するものとは何か、を考えるに際して、同胞団が「中道」をどのように実践してきたのか、そしてイスラーム復興運動におけるムスリム同胞団の位置づけ・意義を検討することによって答えがえられるのではないかという点にあった。中道派とは(極端がどのようなものであれ)2つの極端の間に位置する派であるとの発表者の想定は、直前の山根氏の発表および質疑応答と軌を一にする。上記の3つの問題点は実際には連動しており、最終的に発表者が提示したムスリム同胞団の中道派的あり方とは以下のようなものであった。

 エジプトのムスリム同胞団による「中道」の実践は20世紀の前半と後半で異なっており、20世紀前半のムスリム同胞団の実践は、欧化主義派と伝統墨守派のいずれにも与せず、中道の道を歩むこと(対立する2つの主義である欧化主義と伝統墨守がイスラーム復興を志向していないことから、この時期にはムスリム同胞団はイスラーム復興の主な担い手となる)にあり、後者では急進的なイスラーム復興運動とイスラームを排除する世俗主義との間で改革を志向すること(この時期のイスラーム復興運動は急進派と穏健派に分かれており、同胞団は後者の担い手である)にあった。換言すれば、同胞団にとって「中道」の意味づけは終始一貫していたわけではなく、時代によって変化しているのである。同胞団の歴史からも中道派とは何か固定した立場を指すわけではなく、対立する2つの極があってはじめて成り立つ派であることは明らかであろう。最後に発表者から、最近、エジプトでワサト党(文字通り「中道党」)が結成されており、注目に値するとの報告があった。

 本発表は、本研究会のテーマである「中道派」という概念を、関係性の中でとらえようとするものであった。質疑応答では「中道派」という概念をめぐって活発な討論が行われた。簡略化して言うならば、「イスラーム中道派」を時代・地域横断的な概念として用いるためにはどうすればよいか、西洋的な分析視点/評価から脱却しつつ分析概念を精緻化するにはどうすればよいか、といった問題意識をもとにした議論であった。時代・地域横断的に中道を語る際には、異なる極をもったいくつかの軸が想定できるのではないかといった提案や、イスラームには歴史的に「中道をいく」という考え方が内在しているといった発言など、興味深い内容であった。

 その他、同胞団における革命思想をめぐる問題、エジプトの同胞団とインドのイスラーム党との関係について、同胞団と共産党における組織形態の類似性などをめぐって活発な議論が行われた。


報告者:(平松亜衣子・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



ユニット3第1回研究会(2007年9月21日 於早稲田大学)

 京都大学イスラーム地域研究センター(KIAS)ユニット3(急進派)の第1回研究会が2007年9月21日に早稲田大学で行なわれた。本研究会では、まず、ユニット3の活動として、メンバーが自由に利用でき、急進派国際組織に関するデータを共有できるような備忘録的なウェブページをWikiで製作するという提案がなされ、それについて議論した。このWikiページは非公式版として、メンバー制限を行うことで書き込み等を管理するものとし、いずれKIASの公式ウェブページと連動させ、非公式版のなかのデータを徐々に移行していく方針となった。

 次に国際ワークショップ等、今後のユニット3の活動予定に関して話し合った。

報告者:(保坂修司・近畿大学)




SIASグループ3・KIASユニット4共催 研究合宿
(2007年7月26日~7月27日 於上智軽井沢セミナーハウス)


発表題目:「fikr をめぐる諸言説の思想史的考察―世界へ向かう思考と自己へ向かう思考の間」
発表者:加藤瑞絵(東京大学)


 上智大学アジア文化研究所イスラーム地域研究拠点・研究グループ3と京都大学イスラーム地域研究センター・研究ユニット4共催で「スーフィズムとサラフィズム」をテーマに合宿が行われた。

 加藤氏による発表はスーフィズムとサラフィズム双方の思想的淵源となる可能性を秘めたフィクル――語義的には「思考」を意味する――概念に焦点をあて、古典期においてフィクル概念がどのように展開していったかを探るものであった。まず、フィクルには自己についての省察と世界についての考察という2つの意味があるとするガザーリー(d.505/1111)の定義を確認し、後者の定義が、「威厳の書」(Kitab al-`azama) のタイトルを有する自然学関係の諸作品の影響によるものとされていることを踏まえた上で、ガザーリーがタサウウフのテクニックとして重視した自己の内面へと向かうフィクルがいつ頃から語り出されるのかという問いが立てられ、ガザーリー以前の思想家たちのフィクル概念が、詳細かつ精確に分析された。具体的にはムハースィビー(d.243/857)、マッキー(d.386/996)、フジュウィーリー(d.465-469/1072-1076)、クシャイリー(d.465/1072)というガザーリー以前の四人のスーフィー思想家のテクストが取り上げられ、他方で「威厳の書」ジャンルにおけるフィクルの用例の洗い直しという意図の下、アブー・シャイフ(d.369/979)の『威厳の書』も分析の対象とされた。

 ムハースィビー、アブー・シャイフ、マッキー、フジュウィーリー、クシャイリーそれぞれのフィクル概念が時系列的に整理され、フィクル概念の思想史的展開が次のようにまとめられた。すなわち、自己の内面へと向かうフィクル概念は、ムハースィビー、アブー・シャイフ、マッキーの諸書においてすでに語られているが、ガザーリーの直接のソースと言われることの多いマッキーにおいてもフィクルそのものへの言及が減少している。フジュウィーリーやクシャイリーに至っては、外界へ向かうフィクルの用例が僅かに見られるだけとなった。このことから加藤氏は、ガザーリーが、自己の内面へ向かうフィクルを重視して、外界へ向かうフィクルとともに詳細に記述したのは、それまでの趨勢に逆行するものであり、そこにそれまでとは異なるガザーリーの倫理的思索の方向性が表れているのではないかと提起することで論を結んだ。

 質疑応答では、最終的にガザーリーへ至るフィクル概念の思想史的展開の系譜に、取り上げられた思想家たちが相互にどのように関わるのかをめぐり議論が交わされた。また、外界へと向かうフィクル概念がタサウウフの伝統の中で練り上げられたことに鑑み、ギリシア哲学起源ではないタサウウフ起源の自然学が存在した可能性があるとの展望の下に、ガザーリー以降のフィクル概念の展開を探る必要があるとの指摘がなされた。
 19世紀に展開された狭義のサラフィズムに限らず、イスラームの復興・改革の動きは何時の時代にも存在した。今回の合宿を通じて確認されたように、それらの動きがそれぞれどのように異なるのかという問題は今後検討されねばならない。であれば、イスラーム改革の動きのひとつに数えられるガザーリーの思想的営為を正しく捉えることが極めて重要であることは言うまでもなく、その意味でガザーリー思想のキー概念であるフィクルの思想史的展開をめぐって徹底的に分析を行った加藤氏の発表は重要な試みであった。

報告者:(中西竜也・京都大学)



文献発表1
発表者:朝田 郁(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
論文:Martin van Bruinessen. "Controversies and Polemics Involving the Sufi Orders in Twentieth-Century Indonesia", in F. de Jong & B. Radtke eds., Islamic Mysticism Contested: Thirteen Centuries of Controversies and Polemics, Leiden: Brill, 1999. pp. 705-728.


Bruinessenは本論文で、現代インドネシアのイスラーム改革主義運動下における、スーフィズムとタリーカをめぐる論争の主体を扱っている。発表者は、論文を再構成し項目別に分けることで、論文内容を明瞭なかたちで紹介した。本論文は、インドネシアとヒジャーズが密接な関係を保っており、ヒジャーズへの留学者が帰国して、改革をもたらすという構造があり、それが積み重なることによって、インドネシアのイスラームが多層化されていることを指摘する。そのうえで、改革主義とタリーカの関係を見定めようとする。西スマトラのウラマー、アフマド・ハティーブ(d.1915)によるナクシュバンディー教団批判、急進的改革派であるkaum muda(若い世代)による教団の実践への批判、ムハマディヤやイルシャードといったジャワの改革派組織のタリーカに対する態度、独立前後の政治化するタリーカ問題の動向、インドネシアのシンクレティズムとタリーカの関係など多岐にわたる話題を提供しつつ、Bruinessenは、本論文の主題である論争の主体に関して、総体的に見て、従来指摘されてきた「スーフィー対改革主義者」という構図よりもタリーカのシャイフ間の対立構図の方が際立っていたと結論付けている。

 発表後の質疑応答、およびディスカッションでは、本論文について参加者から、情報量の多さは評価できるが、単なる事例の羅列に終わっているのではないかとの指摘がなされた。また、情報が多かったにもかかわらず、Bruinessenが導いた結論と提示事例との関連性が希薄であった点も指摘された。さらに、本論文と、合宿のテーマであった「スーフィズムとサラフィズム」との関連についても、論文中にはサラフィズムへの言及がなく、本論文はタリーカをめぐるインドネシア国内の論争とその背景に関する事例を単に羅列しているだけであったとの意見が出された。


報告者:(木下博子・京都大学)



文献発表2
発表者:茂木明石(上智大学大学院外国語学研究科)
論文:Frederick De Jong, "Opposition to Sufism in Twentieth-Century Egypt[1900-1970], " in F. de Jong & B. Radtke (eds.), Islamic Mysticism Contested: Thirteen Centuries of Controversies and Polemics, Leiden: Brill, 1999. pp. 310-323.


 本論文は、19世紀後半から1970年までのエジプトにおけるスーフィズム批判を通史的に扱ったものである。ここでは、茂木氏の発表に従って本論文の内容を概略的に紹介し、その後で質疑応答およびディスカッションの内容をいくつか紹介する。本論文によれば、19世紀のエジプトでは、スーフィズムに対する批判は教義的側面ではなく、宗教実践における楽器の使用や危険な行為などの慣習的行為に向けられていた。19世紀後半に政府主導でスーフィー教団の行政面・組織面の改革が実施されたが、これらの改革は、スーフィー教団の指導者の利益を保護するものであったため、教団側からの抵抗はなかった。しかし20世紀の初頭からムハンマド・ウマルやムハンマド・アブドゥ、ムハンマド・ハッターブ・アル=スブキーが本格的にスーフィー教団批判を始めることとなった。20世紀半ばからはまた新たな局面が生じ、政府はムスリム同胞団に対抗するために、スーフィー教団を政治的に利用し始めることとなった。そしてその後も、スーフィー教団は、政府に政治的に利用され続けた。

 発表後の質疑応答・ディスカッションでは、本論文の内容そのものよりも、エジプトのスーフィー教団の現状に関する議論が行われた。例えば、参加者から、ムスリム同胞団とスーフィー教団が「イスラーム復興」に関して協力関係にある可能性はないのかという意見が出た。しかし、基本的に両組織が敵対関係にあるエジプトの現状からは、民衆レベルで両組織にコミットしている人々がいる事例があったとしても、その事例をもって両組織に協力関係があると見なすのには無理があるとの反論がなされた。また、両組織の間に協力関係があるとする仮説を証明するためには、フィールド調査の方法論を含めて、困難な問題が多くあることが指摘された。
  

報告者:(新井一寛・大阪市立大学)



文献発表3 発表者:東長 靖(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科)
論文:Itzchak Weismann, "Law and Sufism on the Eve of Reform: The Views of Ibn `Abidin," Itazchak Weismann and Fruma Zachs (eds.), Ottoman Reform and Muslim Regeneration: Studies in Honour of Butrus Abu-Manneh, London and New York: I.B. Tauris, 2005, pp. 69-80.


 本論文は、オスマン朝タンズィーマート期のサラフィーヤによる改革運動の先行者として、19世紀初頭のシリアの法学者イブン・アービディーンに注目する。19世紀のオスマン朝において、サラフィーヤはイスラームの合理性と信仰の原理的統合を主張し、当時の社会に浸透していた伝統的な法学のあり方とスーフィズムを、ビドア(逸脱)として批判した。しかし前タンズィーマート期において法学者がスーフィズムと手を携え、サラフ時代のモデルと一致するようなムスリム社会を作り、難局を乗り切ろうとしていた事例がある。それがスーフィズムに関心のある法学者イブン・アービディーンとシャリーアへの嗜好性を持つスーフィー、ハーリド・バグダーディーの協働関係である。事実、イブン・アービディーンは、サラフィーヤが批判することになるイブン・アラビーや聖者廟参詣、ハーリド・バグダーディーを擁護する論文を数多く出版している。本論文の結論は、こうしたイブン・アービディーンの一連のスーフィズム擁護から、彼が、スーフィズムは本来的に変化に対応できる力を有しており、近代化に対応する力があると考えていたというものであった。

 発表後のディスカッションの中心となったのは、サラフィーヤと近代の関係に関してであった。参加者からは、サラフの考えは近代以前にも根強くあったものであり、19世紀特有のものではないという意見が出た。この意見を受けて、当事者が生きた時代以前を否定し改革するための装置として、「サラフ」概念が通時代的にたびたび使用されてきたのではないかという意見も出た。また、その点から、サラフィーヤは近代の制約は受けたが、その考えや概念は、時代を超えて通底するのではないかという意見も出された。また、こうしたサラフィーヤの通時代性だけではなく、通地域性についても指摘がなされた。本論文は特定の時代・地域を扱ったものであるが、上記の議論をふまえて、今後通時代的な「サラフ」概念について考察していくことで、サラフィーヤに関する議論に新たな方向性を示せるのではないかと考えられる。

報告者:(安田 慎・京都大学)



文献発表4 発表者:赤堀雅幸(上智大学)
論文:Muhammad S. Umar, "Sufism and its Oponents in Nigeria: The Doctrinal and Intellectual Aspects," F. de Jong & B. Radtke (eds.), Islamic Mysticism Contested: Thirteen Centuries of Controversies and Polemics, Leiden: Brill, 1999, pp. 357-385.


 西アフリカ(特にナイジェリア)のスーフィズムの政治的経済的な側面は従来の研究で扱われてはいるものの思想的な側面はあまり注目されてこなかった。本論文は19世紀初頭から現代までの文献を紐解くことでスーフィーの思想的側面に光を当てようとする。当該地域のスーフィズムをめぐる歴史は大きく2つの時代に分けられる。(1)19世紀初頭から20世紀前半までのタリーカ同士が覇を競う時期と(2)20世前半から現代まで続く反スーフィズムを掲げるウラマーとスーフィズム勢力が対抗する時期である。

 (1)の時代は以下のようにまとめることができる。ソコト・カリフ国の創設者Usman dan Fodio (d.1817)が排他的にカーディリーヤを称揚して以来、当該地域はカーディリーヤ教団の独占状態だった。しかし19世紀前半から次第にティジャーニーヤ教団が浸透しはじめ、1920年代から1960年代にいたるまでの間にはティジャーニーヤ教団がカーディリーヤ教団を駆逐するほどまでに勢力を拡大し、かつてのカーディリーヤ教団と同様の主張、つまりティジャーニーヤが他の教団よりも優れていると主張しはじめた。だがこの少し前(1900-1920)にUsman dan Fodioの系統とは異なるカーディリーヤ教団が出現し、このカーディリーヤ教団とティジャーニー教団はその後対立関係に入ることとなった。この対立関係のなかで互いに相手を批判する論駁書が数多く著されたのである。

 (2)の時第は、20世紀の前半にスーフィズム全体を批判するウラマー勢力が生まれたことに始まる。この反スーフィズム勢力に対抗するため、カーディリーヤ教団とティジャーニー教団は次第に協力するようになり、反スーフィズム対スーフィズムの対立図式のなかでも互いに批判する論駁書が書かれた。

 問題は(1)と(2)の時期が重なっていることであり、20世紀前半には複雑な対立関係が生まれている。この時期に書かれた論駁書およびその後の反スーフィズム対スーフィズムの文脈でなされる言説の分析がこの論文のメインテーマとなっている。

 発表後の質疑応答・ディスカッションでは、本論文の内容そのものよりも、ティジャーニーヤ教団の現状に関する質問が出た。アルジェリアにある同教団の本拠地と世界各地に広がる同教団は関係があるのか、エジプトの同教団は同本拠地と関係があるのかとの質問に対して、世界各地のティジャーニーヤ教団は指導者レベルでも構成員レベルでもネットワークが形成されており、エジプトのスーフィー教団も、アルジェリアの同本拠地を意識して活動を行っていることが調査によって判明しているとの情報が示された。

  

報告者:(新井一寛・大阪市立大学)



文献発表6
発表者:二宮文子(京都大学)
論文:A. F. Buhler, "Charismatic Versus Scriptual Authority: Naqshbandi Response to Deniers of Mediational Sufism in British India," in F. de Jong and B. Radtke (eds.) Islamic Mysticism Contested : Thirteen Centuries of Controversies and Polemics, Leiden: Brill, 1999.


  本論文は19世紀初頭以降のインドにおけるスーフィズムをめぐる議論を対象としたものである。Buehlerによれば、アフレ・ハディースが出現した19世紀以降のインド・イスラームの特徴は二極化にある。二つの極とは、(1)師を神との仲介者とする伝統的スーフィズム(インド的イスラーム)に代表されるcharismaticな極と、(2)ハディースやクルアーンの文言を使って直接、神の真意に到達することを是とし、神と人間のあいだに仲介者を認めないscripturalな極である。後者がアフレ・ハディースにあたる。この二極化を前提に論文の前半部で三つのムスリム革新派(バレールヴィー、アフレ・ハディース、デーオバンディー)によるスーフィズムに対する見解が紹介され、後半部では、墓参詣と仲介、霊的位階、宗教権威のあり方についての、スーフィーとスーフィー批判者の主張の相違が詳述されている。

 二つの極と三つの革新派の関係はこの論文の骨子であるにもかかわらず、わかりづらいので説明を加えておく。バレールヴィーの革新はクルアーンとハディースを多用してスーフィー的な要素と見なされている廟参詣などを説明することにある。いわばインド的イスラームの革新的な補強である。さしあたり(1)の極に属すが、(ハディースやクルアーンの文言を使用するという意味で)(2)の要素を含み持つところに革新性がある。アフレ・ハディースは(2)を代表することはすでに述べたとおりであり、彼らは神と人間を仲介するいかなるカリスマも認めない。1876年にデオバンドにダール・アル=ウルームを設立したデーオバンディーと呼ばれるウラマーたちはインド的イスラームを否定し、「正しい」イスラームを人々に教えようとする。しかし彼らはアフレ・ハディースと違い、教育者たるウラマー自身がスーフィズムにおける師に相当すると考える。バレールヴィーのカリスマが仲介型師匠であるとすれば、デーオバンディーのカリスマは教師型師匠である。この意味でデーオバンディーは(伝統的スーフィズムを否定する点で)(2)の極に属しながら、(1)の極に寄ったものと考えられる。

 質疑応答では、「スーフィズムとサラフィズム」という合宿のテーマとの関連で、アフレ・ハディースによるスーフィズム批判に注目が集まった。アフレ・ハディースは、イスラームの最初の3世紀にスーフィズムが存在しなかったのを理由にスーフィズムを批判する。しかし、その批判対象は、スーフィズムに関わると「考えられている」民衆の慣行が大半である。そうした慣行批判をもって、分析する側が「(慣行批判をしているグループは)スーフィズム全体に批判的である」と捉えることはどこまで正当性があるか。その是非について今後も議論する必要があると思われる。

  

報告者:(丸山大介・京都大学)




拓殖大学イスラーム研究所・KIAS 共催 イスラーム銀行・金融研究レポート
(2007 年7 月20 日 於拓殖大学)





報告1:イギリスにおけるイスラーム銀行
報告者:セイフッディーン・ターグッディーン(英国マークフィールド高等学院教授)
報告2:マレーシアにおけるイスラーム銀行
報告者:アブドゥッラヒーム・アブドゥッラフマーン(マレーシア・イスラーム国際大学准教授・同大イスラーム銀行・金融研究所所長
報告3:湾岸(ドバイ)におけるイスラーム金融
報告者:ジョン・パトリック・ウィリアム・フォスター(ドバイ・イスラミック・ビジネス&ファイナンス副編集長)


*いずれの報告とも日本語通訳付き



拓殖大学イスラーム研究所・KIAS共催 第5回イスラームセミナー
(2007年7月21日 於拓殖大学)





テーマ:イスラーム銀行・金融の仕組みとその展望:啓典クルアーンの教義に立脚したイスラーム銀行・金融の手法を解明する

報告1:イスラーム金融と日本
報告者:武藤英臣(拓殖大学イスラーム研究所客員教授・シャリーア専門委員会委員長)
報告2:シャリーアの規則とイスラーム銀行の歴史的発展
報告者:サルマ・サイラリー(モーリシャス財務省経済分析官・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科客員准教授・KIAS 拠点研究員)
報告3:イスラーム金融業の成長と現在の進展
報告者:メフメット・アスタイ(英国・ダーラム大学教授)


*いずれの報告とも日本語通訳付き

<報告(20日、21日両日とも)>
 拓殖大学イスラーム研究所とKIASユニット5「イスラーム経済」が主催する現代イスラーム金融関係の研究セミナーが、現代イスラーム金融研究を国際的に牽引している研究者および著名な雑誌の編集者を招聘して二日間にわたって拓殖大学で開催された。20日の 「イスラーム銀行・金融研究レポート」は研究者・実務家に対して、イギリス、マレーシア、湾岸諸国の現代イスラーム金融の実態について歴史的概観と現況が紹介された。21日の「イスラームセミナー」では、より一般の聴衆を対象に、現代イスラーム金融の実態とそれを支える諸原則についての紹介が行われた。日本では現代イスラーム金融の実践への取り組みはようやく始まったばかりであり、まだまだ認知度が少ないが、現代イスラーム金融研究の最先端の現場にじかに触れることのできる我が国初の機会であったことから、両日とも多くの聴衆に恵まれ、フロアからも活発な質問がなされた。

報告者:(長岡慎介・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIASユニット1「国際関係」の研究会
(2007年7月18日 於京都大学)
題目:"The Shiites in Iran, Iraq and the Gulf : with a Special Reference to Iran/Iraq Connections with the Shiites in the Gulf Countries"
発表者:Juan Cole(ミシガン大学)


 京都大学イスラーム地域研究センター(KIAS)ユニット1(国際関係)の研究会が2007年7月18日に京都大学で行なわれた。同研究会は、インドからイランにわたるシーア派世界の歴史研究で有名なホアン・コール氏(ミシガン大学)を招聘し、2003年イラク戦争後のイラクと湾岸地域におけるシーア派の動向を分析していただいた。

 コール氏のもともとの専門は、北インドのアワド朝の文書研究、同朝からイラクのアタバート(ナジャフ、カルバラー、カーズィミーヤ、サーマッラーのシーア派四聖地)への資金流通をはじめとするウラマーのネットワークにかんする歴史研究である。カリフォルニア大学ロサンゼルス校でニッキー・ケディー女史に師事したことからも分かるように(議論の方向性にかんしては女史とは若干異なるという印象を受けるが)、イランやシーア派についても多数の論考を残している。また、宗教学も修めていることから、イスラームにかんしてはもちろんのこと、日本仏教についても造詣が深い。また、同氏は北米中東学会の前会長や、International Journal of Middle East Studiesの編集委員を5年間務めるなど、国際的にも名高い。

 そんな彼を歴史研究のサークルを超えて有名にしたのは、2003年イラク戦争以降に彼が始めたブログであろう。単なるブログではない。それは、イラクにかんする膨大な報道を選別し、分析を加える極めて学術的なデータベースである(コール氏のブログにかんしては、Juan Cole, Informed Comment(http://www.juancole.com/)を参照のこと)。それゆえに、毎日更新される彼のホーム・ページは多くの研究論文や書籍で引用されるほどになり、自身は名実ともにイラク政治の専門家になったのである。

 以上のような経緯で、歴史研究者がイラクと湾岸の現代政治を分析することになった。本報告の課題は、イラク戦争後のイラクにおけるシーア派の台頭が、湾岸諸国にどのようなインパクトを与えたかを明らかにすることであった。

 彼が着目するのは、イラクにおけるシーア派宗教界、なかでも最高権威のアリー・スィースターニーの役割である。スィースターニーは米軍の占領に一貫して反対し、イラク国民の主権を認めた民主的な選挙の実施を呼びかけた。コール氏によると、このようなスィースターニーの姿勢は、イラク国内においてシーア派宗教界の支持を強固にしただけではなく(2003年イラク戦争後のイラク国内におけるスィースターニーの政治的役割とその推移に関しては、拙稿「戦後イラクの政治変動とシーア派最高権威の国民統合論:スィースターニーのファトワーから」『イスラーム世界研究』(1/2)を参照)、周辺湾岸諸国におけるシーア派の運動を活性化させた。
 シーア派が3分の2を占めるバハレーンにおいては、アリー・サルマーンを中心とするシーア派の政治的権利の拡大を要求する動きや、米国のイラク占領を批判するデモなどが頻発した。サウディアラビアでは、東部の産油地域に集住するシーア派の政治参加を求める動きが活発になり、それが2005年3月の地方評議会の形成とその選挙実施に結実した。

 コール氏の議論が興味深いのは、スィースターニーによるシーア派の政治動員というトランスナショナルな影響が、湾岸各国の国内レベルにおいては、ナショナルなレベルでの政治動員に帰結しているという分析であり、イランよりもイラクのほうが湾岸諸国のシーア派に対して大きな影響力を持っているという指摘であった。

 報告後は活発な質疑応答がなされ、激動のイラクと湾岸にかんする非常に興味深い研究会となった。

報告者:(山尾大・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



NIHUプログラム イスラーム地域研究
公開コロキアム/2007年度第1回合同集会
(2007年7月7日 於東京大学)


■ 第1セッション:帝国の異教徒/異教徒の帝国
 第1セッションの「帝国の異教徒/異教徒の帝国」は、支配者の宗教としてのイスラームと被支配者の宗教としてのイスラーム、さらに異教徒にとってのイスラームという3つの視点から帝国とイスラームの関係を問うという設定で行われた。そこでの帝国とは、既存の「帝国論」の立場で論じられる帝国ではない。「帝国論」をとりあえずカッコに入れて、地域研究の立場からアプローチしながら帝国という存在を語るという前提でセッションは進んでいった。


 最初の発表は、濱本真実氏により「帝政ロシアのムスリム臣民――正教化政策と正教棄教問題を中心に――」と題して行われ、帝政ロシア下において実施されたムスリムの正教会への改宗政策に付随する一連の諸問題の考察を通じて、帝国にムスリムがどのように同化していき、そこでどのようなアイデンティティを形成していったのかが論じられた。発表では、最も長期間かつ最初に帝国内に編入されたムスリム居住地域であるということから1552年以降から19世紀前半までの沿ヴォルガ・ウラル地方に焦点が当てられた。

 同地域におけるロシア帝国のムスリム統治の方針は時代的に3つに大別される。第一にムスリムの宗教指導者を無視する一方、ムスリム上層階級を容認していた16世紀後半。第二にムスリムの上層階級をも排除しようと試みた17世紀後半。最後にエカテリーナ2世即位後、帝国によって宗教指導者を用い、柔軟な姿勢での同化政策を試みた18世紀末である。

 発表者はこのような帝国側の政策に対し、被支配者であるムスリムの視点からこれらの政策への対応を論じる。ムスリム側はオスマン帝国などイスラーム王朝に対し援助を求める試みによって抵抗姿勢を見せるが、オスマン帝国側はヴォルガ遠征以降実質的な援助を拒否したため、ムスリムのロシア帝国内での孤立化が進んだ。しかし、エカテリーナ2世の時代になると柔軟な同化政策が採られ、ムスリムの側でもロシア帝国側と協力する宗教知識人が多数出現することとなった。全体としてみれば、徐々に同地域のムスリムにロシア人として意識が芽生え、ロシア・ムスリムとしてのアイデンティティが形成されるという流れにあったことは否定できないが、タタール商人がロシア帝国に協力する一方で、バシキール人が協力関係を放棄するなどムスリム側も一枚岩ではなく、対ロシア協調という点で民族的な差異があったことも併せて指摘された。

 発表者によれば、ムスリムのロシア帝国への臣従を促す要因となったのは、皇帝による臣民としてのムスリム受容、つまり異教徒である帝国側からのコミットと、帝国内での正教会の国教としての影響力の弱さである。それらが、ロシア・ムスリムとしてのアイデンティティを形成するのみならず、宗教知識人のなかでロシアをイスラームの家(ダール・アル=イスラーム)として考えるように促したのではないかと指摘された。


 続いて、小沼孝博氏により「清朝と東トルキスタンのトルコ系ムスリム――北京・東安福胡同の記憶――」と題する発表が行われた。支配者側である清朝のトルコ系ムスリムに対する支配のあり方とその正当性の説明、また被支配者側であるトルコ系ムスリムから見た異教徒の支配者である清朝皇帝の支配という問題が、とくに18世紀中葉の北京城内におけるトルコ系ムスリム居住区の設置とモスク建設に注目して論じられた。

 18世紀半ばの清朝による東トルキスタン征服の結果、東トルキスタンが清朝の統治下に入ることになる。発表者によれば、清朝による異教徒支配の形態をオスマン帝国やロシア帝国などの他の帝国と比較した場合、国教なき帝国という特色が見られる。「異教徒」概念を創出しない清朝の支配理念とは、すべての人を平等に見て仁愛を施すこと、「一視同仁」の思想である。

 支配者側からみた被支配者と帝国の関係に続き、被支配者側からみた帝国と支配者の関係が論じられる。東トルキスタンにおいて、その宗教的指導者層であったホージャ家の抵抗に見られるように、シャリーアの遵守による異教徒支配の打倒とイスラームの家(ダール・アル=イスラーム)実現を唱える抵抗運動が実施された。その一方で、被支配者側には「公正な支配者」への信頼、恩義に対する忠誠の観念があり、異教徒の王であっても、必ずしも打倒すべき対象とはみなされず、その支配が受容されていく方向も存在した。

 以上の東トルキスタンの清朝への編入に関する概観を示した後、北京のムスリム居住区におけるモスク建設に関する碑文を手がかりに、清朝の統治理念を発表者は再検討する。同モスクは乾隆帝によって建設が指示され、宮廷財政から費用が捻出された。モスク建設の碑文は漢語、満州語、モンゴル語、ウイグル語の4言語で刻字されており、支配下の各集団の慣行を尊重し、強引な一元化を志向せず統合の実現を目指し、ムスリムに対してもほかの集団と同じく仁愛の心を示していることがうかがえる。その一方で各言語を比較した結果、公的な情報操作が見られ、そこに清朝の統治のしたたかさがあると指摘された。


 第1セッション最後の発表は、秋葉淳氏による「ミッレト制論争再考――比較史的考察に向けて――」である。これまでの2本の発表が非イスラーム王朝におけるムスリムに着目した発表であったのに対し、この発表はイスラーム帝国における非ムスリム支配に着目した発表である。

 まずミッレト制の辞典・事典項目における記述を紹介し、ミッレト制概念に混乱が見られることが指摘された。発表者は議論の前提として「ミッレト制」の古典的な解釈を(a)起源・(b)構造・(c)特権(自治権)という3つの要素で分析する。古典的解釈では、ミッレト制は1453年のメフメト2世がコンスタンティノープルを征服した後に、それぞれのミッレトの長を任命し、特権を与えたことに遡り(a)、構造的には中央集権的であり(b)、スルタンが各ミッレト内での宗教的・行政的な自治を保証した(c)とされていた。

 しかし発表者によれば、以上のような古典的な解釈は現在ではもはや通用しないという。発表者は、ミッレト制の古典的解釈に根本的な疑問を投げかけたベンジャミン・ブロードの説を紹介し、ブロードが「ミッレト」の用語と起源の問題を批判し、オスマン帝国は非ムスリムに対する一貫した政策や制度を持たず、中央集権的ではなかったと主張した(つまり古典的解釈の(a)と(b)が否定された)ことを確認した。続いて発表者は日本でのミッレト制の議論を概観する。日本では、ブロード説が概ね受容されており、宗派内自治については承認するが、中央集権的な制度としての「ミッレト制」を批判していることが述べられた。

 こうした議論に対し、ミッレト制の枠組みを根本から批判し、「聖職者徴税請負制」論という新たな概念を提唱したマージド・ケナンオールの説が紹介された。彼は、ミッレトの長がいかに多くの権限を持っているように見えていても、それは帝国の法によって規定されており、あくまで帝国の法の範囲内にあったことを根拠にして、ブロード説が流布したのちもミッレトが有すると考えられてきた「自治」をも否定したのである(つまり古典的解釈の(c)の否定)。

 最後に発表者は、本発表で論じられたような非ムスリムを支配する方法がオスマン帝国、あるいはイスラームに固有であるかのごとくに受け取られるかもしれないが、果たしてその制度がどの程度独特なものであるのかという問いを提示し、オスマン帝国以外との比較、ロシアのムスリム宗務協議会や植民地期のシャリーア法廷などとの議論の俎上に乗せれば、比較史的な考察が深まるのではないかと提言することで発表を締めくくった。


 第1セッションは地域としては、ロシア、中国、トルコ、方法としては、歴史的推移の追跡、個別事例の評価、概念の再検討といった具合にバラエティに富み、全体のバランスもとれており、地域研究の幅広さとともに奥深さが感じられる理想的なセッションであった。 。


■ 第2セッション:イスラーム地域研究における研究手法の開発
 第2セッションの「イスラーム地域研究における研究手法の開発―東大拠点による試みの紹介」では、東大拠点で現在進行中のプロジェクトの中から、3つの研究手法について発表された。


 最初の発表は、松本弘氏による「民主化研究のなかの中東――アプローチの模索――」であり、中東民主化データベース構築を中心とする東大拠点グループ2「中東民主化研究班」の活動が紹介された。しばしば、中東は「第三の波」に乗り遅れたと言われている。すなわち民主化への移行が進まず、民主化という方向からの評価が難しいとされてきたのである。80年代末から政治制度の変化が見られるものの、いずれも長続きせず、停滞・後退していったという現象面での原因がまず挙げられるが、「民主化研究」一般から見て、中東は例外的・参照的な位置づけしかされていなかったこともその大きな要因のひとつと考えられる。当研究は、そのようなマイナス面を補うため中東地域の横断的な比較を政治制度やその運用に着目しながら中東民主化データベースを構築し、中東地域の民主化の再評価を試みるものである。

 しかし、そのように地域研究・比較という手法を導入したとしても研究の障害となる「4つのギャップ」が存在すると指摘する。第一に民主化への「外圧」と現状に対する各国の現状認識との間にあるギャップ、第二に世界的規模からの民主化達成評価と各国ごとの民主化達成評価の間にあるギャップ、第三に中東地域における各事例間のギャップ、第四に民主化研究と中東地域研究の間にあるギャップである。いずれも、「比較」と「地域研究」という手法によって生じる問題であり、いかにその乖離を乗り越えて、政治学における民主化研究を中東地域において行いうるのだろうか。そこに中東民主化研究の成否のカギがある。

 発表者はそれに対して3つのアプローチを提示する。第一に、既存の理論や仮説の確認と応用、第二に地域に特有の問題の整理、そして第三に「新制度論」の適用可能性を探ることである。とりわけ、近年の政治学において議論されている新制度論を用いることにより、議会や選挙などの「フォーマルな制度」の変遷を評価し、さらに文化や習慣、価値観などの「インフォーマルな制度」を説明変数として組み込み、より客観的で比較可能な研究を進めることで上記のギャップが埋められるとの見通しが述べられた。

 松本氏の発表に続き、宇山智彦氏から、東大拠点の作成している民主化データベースに対して重要であると評価する一方で、研究手法については、新制度論を用いることの問題点や疑問があるとのコメントがなされた。質疑応答ではおおむね、東大拠点の民主化データベースが中東地域のみならず、今後の比較政治学や民主化研究へも貢献するであろうと大きな期待が寄せられているさまがうかがわれた。


 2番目の発表は、ティムール・ダダバエフ氏による「記憶の中におけるソ連――聞き取り調査の試み――」である。発表者は、ソ連時代を知る人々が物故していく中で、当時の記憶をどのように保存するか、また共産圏で聞き取りをするときの方法論と課題について、ウズベキスタンにおける調査を中心に論じた。

 はじめに当研究の目的が説明された。まず、社会主義時代の出来事、人々の記憶に残ったエピソードや生活の様子を、インタビューを通じて記録する。それに基づいて、歴史上の出来事と、人々の日常生活や体験をすりあわせ、政治以外の場面で人々の生活がいかなるものであったのかについて検討する。さらに、ソ連崩壊に至った経緯を、人々の日常生活を通して分析する。以上を踏まえて、ソ連時代とその後の時期における多くのステレオタイプを壊し、時代の複雑さを指摘することが当研究の狙いである。

 上記の目的を達成するため聞き取り調査では以下3つの手法がとられた。まず各家族の外部者によるインタビューではなく、家族内の話し合いを記録すること。ソ連時代のウズベキスタンに関する通念や通説を批判的に再検討すること。そして、語り手がソ連時代に語ったことをもとに、当時の日常を再現する一貫として、「参加型」の調査を実施することの3点である。

引き続き、このような調査を進めていく上で想定された課題が2点述べられた。1点目は政治的なプレッシャーや人々のメンタリティーによって、本音を語ってもらうことが困難なのではないかということ。2点目は、本音を聞き出すための外部者と内部者の協力体制をいかに築くかということである。

 特に最初の課題を踏まえ、インタビュー方法は、ある程度厳密に決められた質問からなる質問票を作成した上で、回答者が答えたい項目だけに答えてもらうという方法を主に採用した。その結果、インタビューの内容が、質問が厳密に決められたアンケートや抽象度が高い質問票よりも興味深い結果が得られたこと、また、使用する言語によって回答の違いが見られることなど副次的な発見があったことが報告された。

 最後にインタビューを実施したあとに見出された問題が4点述べられた。主要都市や人口密度が高い地域をサンプリングに反映させてはいるが、アクセスしにくい地域の回答者がいないこと、インタビューに応じてくれない人が想像以上に多かったこと、インタビューへの他者の介入、インタビューで得られた人々の「記憶」は本当に記憶なのか、というものである。

 当研究によって行われた聞き取り調査およびその調査に対する反省はたんにソ連時代のウズベキスタンに存在した人々のありさまの研究として有益なだけではなく、広く、聞き取り調査一般の方法論に対しても有意義なものであると感じた。


 本セッションの最後の発表は、小松久男氏と後藤寛氏による「フェルガナ・プロジェクト――GISによるイスラーム地域研究の試み――」である。本研究は、初期のイスラーム地域研究から継続されているプロジェクトであり、GIS(地理学情報システム)を用いて中央アジア・フェルガナ盆地の状況を視覚的に描写する試みである。フェルガナ盆地は、中央アジアの面積のわずか5%を占めるに過ぎないが、20%の人口を占める地域である。複雑な民族構成をともない、19世紀以降、中央アジアの重要な政治変動の中心となってきた。

 今回の発表では、ソ連時代の統計資料や地形データを融合し、フェルガナ盆地の歴史的な状況を地図によって示していた。なかでも、民族構成の変化や水路と農村の配置など、フェルガナ盆地を規定する重要な視点を、理解しやすい形で提示している。こうしたGISを利用した地域研究は、文献・統計・映像を統合するなかで地域の動態を理解し、新たな研究視角を発見するものである、との言で発表は締めくくられた。続く質疑応答のなかでは、GISの利用目的と研究との関係について、今後のプロジェクトの発展に有益な提言がなされた。


 第2セッションでは地域研究に対する野心的な試みが3つ紹介された。どれも新たな研究領野を開拓していく試みであり、これからの研究が待ち遠しくなる、そのような研究であることが十分に察知された。第1セッションと第2セッションともに東大拠点の研究の充実ぶりを示す素晴らしいコロキアムであったと聴衆の誰もが感じたに違いない。

報告者:(黒田賢治・堀拔功二・丸山大介・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)




KIASユニット4 SIASグループ3 研究会(2007年6月23日 於京都大学)




題目:「インド世界とイスラーム―聖者チャイタニヤの伝記文学から」
発表者:外川昌彦(広島大学大学院国際協力研究科)


 外川昌彦氏による発表は、「ヒンドゥー教」概念の成立に関するものであった。本発表では特に、クリシュナ・バクティ運動の推進者であったチャイタニヤ(チョイトンノ)の伝記文学をもとに、「土着の宗教」としてのヒンドゥーが、イスラームとの関わりの中で自覚されていった様子が明らかにされた。

 外川氏はまず始めに、イスラームのスーフィズムがバクティ運動に影響を与えていたことに言及し、聖者信仰を通してシンクレティズム論を考える重要性について述べた。続いて、現代インド世界を特徴付けるコミュナリズムが、植民地時代よりも古い起源を持つ現象であることを示唆したベイリーの学説を紹介した。そしてこれらの議論をもとに、外川氏は概念としての「ヒンドゥーイズム」が西洋キリスト教世界との接触によって生み出されたとする従来の学説に疑問を呈し、15~16世紀のベンガルにおけるヒンドゥー教徒とムスリムとの関係性の中に、その萌芽がすでに観察される事実を指摘した。

 本発表はこれらの問題群の中でも、最後に提起された中世ベンガルの伝記文学における「ヒンドゥー」の用法と意味に関する考察を中心に進められた。研究にあたって分析対象とされた資料は2点ある。1つはチャイタニヤの没後十数年を経てブリンダボン・ダスによって書かれた『チョイトンノ・バゴボト』、もう1つはその70年後にクリシュノダス・コビラージによってまとめられた『チョイトンノ・チョリタムリト』である。資料の特徴としては、前者がチャイタニヤの日常や交友の記述を中心としており、後者では事跡の記録に加えて真理に関する議論も見られる点が挙げられる。

 資料の比較では、中世ベンガルの人々が宗教としての「ヒンドゥー」という概念を共有していたかどうかが詳細に検討された。先に成立した行伝では宗教としてのヒンドゥーの用法が明確には見られないのに対し、後で書かれた伝記にはそれが顕著に現れてくる。そして、それらの背景では常にイスラームに対抗するヒンドゥーという、宗教的な緊張関係が存在していると結論付けられた。

 質疑応答ではまず、後に書かれた資料の方により哲学的な議論が展開されている理由として、当時その勢力を拡大しつつあったムガル帝国の影響が無視できないとするコメントがあった。また、宗教間対立がチャイタニヤの生きた16世紀から顕在化し始めたのか、それともそれ以前から存在していた問題であったのか、コミュナリズムを本質化することの危険性と絡めて問う発言もあった。それに対して外川氏は、コミュナルな状況が特定の歴史的過程で生じたのか、時代を超えて普遍的に存在し得る問題なのかどうかは、今後さらに慎重に検討していく必要性があるとコメントした。

 今回の発表では、これまでのインド研究においてヒンドゥー研究者の内部のみで閉じていた議論に対し、イスラーム地域研究の視座を導入しようという意欲的な試みが示された。またイスラーム地域研究に携わる者にとっても、インド研究における成果からヒンドゥーとムスリム民衆の関係が検証されたことで、複合現象としての「スーフィズムと民衆イスラーム」のより総合的な理解が可能になった。新たな研究手法を取り入れることで、本研究はポストコロニアル時代のヒンドゥー研究およびイスラーム地域研究に一石を投じるものであったといえる。

報告者:(朝田郁・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)





題目:「パキスタンの聖者信仰に関する文化人類学的研究――師弟関係と霊魂観からみた宗教世界の一考察」
発表者:水野裕子(広島大学大学院国際協力研究科)


 外川氏発表と同様SIASグループ3「スーフィズムと民衆イスラーム」とKIASユニット4「広域タリーカ」が主催するスーフィー・聖者研究会本年度第一回研究会での発表である。このスーフィー・聖者研究会第一回研究会でのテーマは南アジアのスーフィズム・タリーカであり、外川氏の発表が文献学的歴史学的な方向からなされたのに対して、水野氏の発表は人類学的フィールド調査の調査結果をもとに行われた。

 発表者はパキスタンのラホールにある4つの聖者廟をフィールド調査の対象とし、その四つの聖者廟でルーフや夢がどのような役割を果たしているのか、ルーフ(霊魂)や夢を媒介としてピール(導師)とムリード(弟子)あるいは、ピールと一般の人々との関係がどのように構築されているのかを調査した。その調査結果が本発表である。

 ピールがすでに物故した聖者のルーフとつながりをもつことで、その弟子であるムリードが間接的に過去の偉大な聖者と関係をもつことができる。しかしそれ以外にもピールが過去の聖者のルーフと交感することの意義がある。たとえば聖者廟において、ピールは過去の聖者のルーフと通じることによって聖者の奇跡を現世で体現すると同時に自分の身の上に起こったさまざまな奇跡を人びとに語り、ピールと聖者との間に強い結び付きがあることを人々に対して印象づけている。他方、聖者のルーフに至るルートはピールだけにかぎられない。たとえば聖者の命日祭に行われるダマール(舞踏儀礼)や集団唱名のような行為を通じても人びとは聖者のルーフを感じることができる。このように過去の聖者のルーフとの交感は導師とその弟子の間の関係にかぎらず、聖者廟という場を中心としながら、もっと広い範囲でみられる現象なのである。
 また人びとがルーフを経験する媒体として夢があることも指摘された。預言者や聖者、ピールが現れる夢は教訓や助言、警告、使命をあらわすものとされ、きわめて重要なものだと理解されている。(預言者・聖者・ピールの)ルーフは夢を通じて人びとに認識され、現実世界の生活にさまざまな影響を与えている。

 発表者は、ルーフが聖者に関わる人々の活動の基層にあり、それが現実世界の人と人とのつながりを規定する大きな要素になっていると結論付けた。

 その後の議論ではピールとムリードの師弟関係におけるルーフの位置づけ、さらにルーフが一般的にイスラーム世界でどのように考えられているかが問題となった。前者に関してはムリードが本当に依拠するのは師であるピールなのか、それとも過去の聖者なのかが議論された。後者に関してはルーフとは一体何なのか、そしてそれはパキスタン、ひいては南アジアに固有の現象なのか、そうではないのかが論じられた。これら二つの問題はいずれも即答することが不可能であるが、重要な問いであることが確認された。

 「スーフィズムと民衆イスラーム」や「広域タリーカ」に関するこれまでの研究においてもルーフや夢の存在は認識されていたが、研究や議論の中心的な対象とはなってこなかった。本発表はパキスタンという特定の事例を扱いながらも、ルーフや夢を議論の中心へと持ち出した点で、今後の両者の研究に新たな方向性を与えるものである。

報告者:(安田 慎 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



KIAS・ASAFAS連動講義「南アジア・イスラーム論」
(2007年6月8日~7月13日 於京都大学)




講師:山根 聡(大阪外国語大学准教授、 KIAS拠点研究員)

 2007年6月8日(金)から7月13日(金)の毎週金曜日に、京都大学工学部4号館4階AA415(第2講義室)において、KIASとの連動で大阪外国語大学山根聡准教授を講師に迎え「南アジア・イスラーム論」が開講された。本講義は南アジアにおけるイスラームの過去と現在を講ずることで、現代イスラーム世界におけるイスラーム復興運動の実体に南アジアから光を当てることを目指したものである。なお山根氏はKIASユニット2「中道派」のユニット責任者でもある。
 各回の講義内容は以下の通りである。

第1回 南アジアのイスラームを学ぶために
第2回 ムスリムの見た「インド」:イスラーム史に現れるインド(ムガル朝以前)
第3回 イスラームの広がり:スーフィー
第4回 インド文学とイスラーム
第5回 南アジアにおけるイスラーム復興

 南アジアのイスラームは、その深淵な歴史的変容、豊穣な文化的遺産、そして宗教的誠実さにもかかわらず、これまでイスラーム世界全体のなかで正当な認識と評価を獲得してこなかったと言っても過言ではない。しかしながら、現代イスラーム世界におけるイスラーム復興の潮流を見るにつけ、南アジアから発信されるイスラームの重要性は日増しに大きくなっていることは間違いない。南アジアとイスラームの関係を、過去と現代の歴史的変遷、および他地域との比較の中から浮き彫りにすることは、今日のイスラーム理解に緊要な課題である。山根氏による本講義は、このような要請に十分に応える刺激に満ちたものであった。たとえばイスラームの伝播にともなって南アジアにもたらされた最大のものは「文字の価値」であり、イスラームが「文字」の価値を尊重し、史料を残して歴史を記述する「記録する文化」をもたらしたことが南アジアに文化的豊穣さをもたらし、学問的進歩を促進したとの指摘にはハッとさせられた。

報告者:(平野淳一・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)




KIASユニット5「イスラーム経済・特別レクチャー」シリーズ
「現代イスラーム金融入門」
(2007年 5月22 日~7 月3 日 於京都大学)




講義内容:"An Introductory Course on Islamic Banking and Finance"(現代イスラーム金融入門)
講師:サルマ・サイラリー(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科客員准教授、 KIAS拠点研究員)


 本講義は、KIAS教育プロジェクト「イスラーム世界の国際組織をめぐる大学院教育」の一環として、モーリシャス財務省経済分析官でアジア・アフリカ地域研究研究科客員准教授のサルマ・サイラリー氏を講師に迎え行われた。近年、世界的に拡大を続ける現代イスラーム金融の理論的思想的背景や歴史的変遷を紹介するだけではなく、最新の研究動向や現代イスラーム金融の現状も扱われ、現代イスラーム金融研究に必要な専門的知識と分析視角の修得が目指された。なおこの講義はKIASユニット5「イスラーム経済」の研究活動とも連動している。講義内容は以下の通り。

講義内容
1.現代イスラーム金融の基本原則
2.イスラーム法と現代イスラーム金融の金融手法
3.イスラーム金融商品の概観
4.スクーク(イスラーム証券)のしくみ
5.現代イスラーム金融におけるアセット・マネージメント
6.タカーフル(イスラーム保険)のしくみ

報告者:(長岡慎介・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)




KIASユニット2 研究会(2007年5月21日 於京都大学)


題目:「コム在住のナジャフ学派ムジュタヒドの動向およびペルシア語におけるサドル(Muhammad Baqir al-Sadr)研究文献概観」
発表者:松永 泰行(同志社大学 神教学研究センター 客員フェロー)


 本研究発表は、二つの目的によって構成される。第一に、シーア派の世界的な学問都市の一つであるイランのコムにおける、イラクのナジャフで学んだ法学権威(marji` al-taqlid)の現状の社会的位置づけをめぐる分析。第二に、イラン社会で故ムハンマド・バーキル・サドル師(Muhammad Baqir al-Sadr 1980年イラクで処刑)の思想がどのように捉えられているかについて、出版状況の現状報告と内容紹介という形で情報を共有することにある。

 発表者は、ハウザ(ホウゼ)を個々に独立的に存在している諸マドラサの総体であり、緩やかな繋がりによって組織化されたものとして捉える。またコムのハウザには、コム神学校教員協会(Jame`-e Modarresin-e Howze-ye `Elmiyye-ye Qom・以下JMHEQと略)がある。JMHEQは、1979年の革命以後継続する現体制であるイスラーム体制の支持派内の保守系のウラマーによって構成される。

 発表者はこのようなJMHEQをイラン政治のパワーセンターとして位置づける。現在では、同組織は故ボルージェルディー師や故ホメイニー師の非文化保守派以外の元学生から構成されているという。しかし発表者によれば、ホメイニー師が法学権威となった後の活動を考えた際、現実的にホメイニー師の学閥なるものは存在しないのではないかという。それは、ホメイニー師が大アーヤトッラー(aya allah al-`ozma)となった後に、教授活動が可能であった時期が、ごく僅かであったためである。

 また現在のJMHEQの構成員には、ファーゼル・ランキャラーニー師(Mohammad Fazel Lankarani d. 2007)やマカーレム・シーラーズィー師(Naser Makarem Sharazi)のような現在の法学権威が含まれている。その一方で、コムで学びつつ同組織に属していない法学権威が、コムに在住しているという。発表者は、それらの法学権威が同組織に属していない理由について、体制との関係に焦点を分析を行う。すなわち、彼らは、非体制派であって「伝統的」なイスラーム思想を展開する法学権威、またホメイニー師の没後、コムでプレゼンスを確立していなかった法学権威と位置づけられる。

 このように非JMHEQ構成員の現体制下での位置づけの後、発表者はJMHEQとナジャフ学派の法学権威との関係を通じ、コム在住のナジャフ学派の法学権威がどのような社会的位置を獲得しているかについて分析を展開した。1994年12月に発表されたJMHEQが推薦する法学権威として含まれていたベフジャト師(Mohammad Taqi Behjat)、ヴァーヒド・ホラーサーニー師(Hoseyn Vahid Khorasani)、ジャヴァード・タブリーズィー師(Mirza Javad Tabrizi d. 2006)などが、コムで高い社会的地位を保持していると考えられる。またバーキル・サドル師の弟子であるハーシェミー・シャーフルーディー師(Sayyed Mahmud Hashemi Shahrudi)に関しては、現在の最高指導者であるアリー・ハーメネイー師との関係と、JMHEQのメンバーであることから、イラン社会での位置を確立した法学権威であると判断される。

 これらJMHEQの概要、またコム社会におけるナジャフ学派の法学権威の位置づけを分析した発表者は、続いて「知のインフラ」整備ともいえる、ペルシア語におけるバーキル・サドル師の研究文献の概観を行った。発表者によれば、バーキル・サドル師はシーア派の復興に積極的に関与した法学者としてイラン社会で敬意を示される一人である。そのバーキル・サドル師に関する研究文献の近年の出版状況およびその傾向について、非常に詳細な紹介が行われた。参加者の中にはイスラーム学・イスラーム政治の専門家が幾人もおり、質疑応答でも白熱した議論が展開され、大変有意義な研究会となった。

報告者:(黒田賢治・京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)



題目:シーア派イスラーム運動の新展開:ダアワ党・サドル派・ヒズブッラーを中心に」
発表者:山尾 大(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)


 5月21日に開催されたKIASユニット1「国際関係」主催の研究会はシーア派の国際的展開をテーマとした。フセイン政権崩壊後の政治的混乱のなかでシーア派に注目が集まっているが、シーア派が国境を越えて今現在も影響関係があり、新たな関係を作りつつ活動していることを再認識させられた研究会だった。発表者は2名であり、松永氏が、イラクのバーキル・アル=サドルが現在のコムのハウザに与えている影響を論じたのに対し、山尾氏の発表は、バーキル・アル=サドルの後継者たるサドル派を含めたシーア派諸勢力がイラクやレバノンでどのようにイスラーム運動を展開しているのかに焦点を当てた。

 今日のシーア派イスラーム運動を語る場合、ダアワ党、サドル派、ヒズブッラーの3つの団体は欠かせない。この3つの団体はそれぞれ影響関係にあるものの、別個の活動を展開している。これら3つの団体を「シーア派イスラーム運動」の括りに入れた場合、はたしてシーア派という以外に、特に「運動」という側面に関して共通点があるのか。本発表のポイントはそこにあり、発表者はこれら「シーア派イスラーム運動」の拡大をウラマー・ネットワーク型拡大と捉えることで共通要素を探った。3つの団体に共通するのはシーア派の伝統的なネットワークに乗るかたちで拡大していることである。シーア派の伝統的ネットワーク形成はハウザにおける師匠と弟子の関係、ウラマーの家系が核となっており、今日の「シーア派イスラーム運動」でもその点は継承されている。しかし、特にハウザの位置づけが伝統的なネットワークとは異なる。伝統的なハウザはネットワークの核であり、中心である。しかし現代のシーア派イスラーム運動ではむしろハウザは利用されるものとなる。たとえばサドル派ではハウザが宣伝とリクルートの事務所を兼ねており、ヒズブッラーはハウザを所有し、イデオロギー教育や政治的動員力強化に使用する。つまり、現代では運動がネットワーク型拡大をする場合、伝統的なウラマーのネットワークやハウザなどシーア派的組織形態を「近代的」組織活動に組み込むかたちで利用するのである。

 かつて、スンナ派では近代的教育を受けた「世俗的」インテリがイスラーム運動をになっていたのに対し、シーア派では伝統的教育を受けたウラマーがイスラーム運動の担い手となっていた。ところが今日ではシーア派イスラーム運動を担うウラマーが変質し、法学権威と言うよりむしろアジテーターと言ってもよい存在になっている。伝統的ウラマーから「世俗的」ウラマーへの変質である。それに伴い、組織では非ウラマーであるテクノクラートの存在が大きくなった。その背景には組織内で選挙が行われるようになったためテクノクラートが幹部になる可能性がでてきたこと、またハウザでテクノクラートを養成して閣僚として国家権力中枢に送りこもうとする傾向があることが挙げられる。

 本発表は、今日の「シーア派イスラーム運動」が大衆運動化することに伴うさまざまな事象のなかに伝統的シーア派と異なる、「シーア派イスラーム運動」の共通要素を見出そうとするものであった。質疑応答では特に、イランのハウザとイラク、レバノンのハウザの違いが問題になった。いずれにせよ、松永氏の発表と併せて考えるならば、ペルシア語圏シーア派研究とアラビア語圏シーア派研究の垣根が外されたという意味で有意義な研究会であった。

(『イスラーム世界研究』編集部)




KIASユニット4 第一回研究会(2007年2月3日 於京都大学)




題目:預言者の医学―ザンジバルの事例から
発表者:藤井千晶


 昨年2006年9月~12月に発表者が行なった現地調査の成果が報告された。まず、東アフリカにおける民間医療を扱った先行研究では、儀礼や呪術的な民間医療の中にイスラーム的要素を指摘しても、預言者の医学(tibb al-nabaw?)を個別に取り上げる試みはなかったことが紹介された。昨年の調査は、(1)預言者の医学に関する出版物調査、(2)預言者の医学に基づいて治療を行なう3人の人物(医療行為者と呼ぶ)への聞き取り調査であった。(1)の結果として、預言者の医学関連のものはスワヒリ語書籍に多く、現地で広く流通している様子が報告された。(2)の結果として、医療行為者は治療としてドゥアー(祈願)を行ない、薬や護符を与えること、患者からの相談内容は、体の不調以外に家庭問題や対人関係の悩みを含むことが報告された。発表者は、患者は身体的・精神的苦痛からの解放を求めて治療行為者を訪れるのであり、tibu(tibb)は「医学」というよりも「救うこと、癒すこと」と理解すべきだとした。以上を受けて、出席者からは治療行為者の自称と他称に相違はあるのかという問いや、西洋医療ではなく預言者の医学を選択する理由などは患者側への聞き取りが不可欠だという指摘があった。これらの観点は、今後の調査での課題とされるだろう。



題目:タリーカ組織論の射程―共同性と単独性、ミクロからネットワークまで―
発表者:新井一寛


 発表者が専門とするエジプトのタリーカを中心としつつ、広範なトピックが扱われた。まずタリーカ組織論の概説、組織形態の分析に有効なモデルの紹介、「共同性」(タリーカや地域社会など諸々の共同体に所属するものとしての個人の性質)と「単独性」(神と対峙する個人の性質)という視点導入の提案などがなされた。続いて、映像人類学の概説として映像の諸形式の紹介や、タリーカ研究における映像活用の意義が述べられた。発表者は次の3つの意義を指摘した。(1)映像を資料、分析対象として活用することができる。(2)宗教実践を記録し、保存できる。(3)感情の高揚や人物の魅力を端的に伝えることができる。最後に、共同研究の枠内にタリーカ組織論研究を位置づけつつ、今後の研究構想が示された。組織論については、より多くの事例を蓄積し、分析を精緻化する意欲が示された。儀礼研究における映像活用の可能性も強調された。出席者からは、組織形態モデルについて、他の地域のタリーカにも適用可能であるかという問いが出された。国家主導で組織化されたエジプトのタリーカは特殊な事例であり、他地域への適用は留保される点が確認された。映像作品という形式で研究者の分析を十分に示し、学問として有意味なものとなりうるのかとの声もあった。これに対し、技術の進歩により容易に映像を利用できる現代の研究者は、積極的に映像資料及び手法を用いるべきだとの応答があり、教育現場で映像の導入が進んでいることも紹介された。さらなる展開の可能性を示す意欲的な発表であった。


報告者:加藤瑞絵(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程)