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NIHUプログラム・イスラーム地域研究 早稲田大学拠点・東京大学拠点・京都大学拠点共催シンポジウム
「10年目の9.11―国際社会とイスラーム世界はどう変わったか―」
(2011年9月11日 於早稲田大学大隈記念講堂小講堂)
〈基調講演〉
「危機と希望の新時代へ―イスラーム地域研究の立場から」
小杉泰氏(京都大学)
〈講演〉
「変容するジハード主義」
保坂修司(日本エネルギー経済研究所)
「9.11がもたらしたもの―パキスタン社会における権力構造の変容」
山根聡(大阪大学)
「中央アジアの眺望」
小松久男(東京大学)
〈パネルディスカッション〉
司会:保坂修司
パネリスト:私市正年、小松久男、小杉泰、山根聡、末近浩太
2001年9月11日米国同時多発テロ、いわゆる9.11からちょうど10年の節目にあたり、3拠点の研究者が集まり、一般・研究者を対象とした公開シンポジウムが開催された。
最初に、小杉氏から「危機と希望の新時代へ」と題された基調講演がなされた。小杉氏は、まず3つの危機として、(1)反テロ戦争、(2)2010年12月のチュニジアを契機として中東諸国に広まったアラブの春、(3)日本の原子力エネルギー問題を指摘した。テロに対して反テロ戦争が仕掛けられ、さらにそれに反撃するテロ攻撃という負のスパイラルの中で、双方から22万人を越す犠牲者が発生し、経済的損失も計り知れない。また、反テロ戦争の中で、アラブの独裁という体制が終わらなかったことも問題として挙げられる。これらのテロ攻撃に対する解決策は、反テロ戦争だけではなく、平和や非暴力という選択肢もありえるはずである。
2つめの危機であるアラブの春は、民衆の革命という形で表面化してきたが、根本的には石油をめぐる国際問題につながっている。例えばシリアでは、既にデモが長期化しており、市民の被害や経済の停滞、人道的な問題も表面化している。しかし、その国土に石油を有しないシリアの国内情勢は取り沙汰されない。一方で、石油の埋蔵量の多いサウジでは、このまま何も起こって欲しくない、と利権をめぐる諸外国が圧力をかける構造が出来上がっている。さらに、これらは2011年3月11日の東日本大震災を契機に浮上した、原発を初めとする日本国内のエネルギー問題ともつながっている。
これらの危機に対し、小杉氏は「10年目」に浮き上がりだした希望を見いだしている。そのきっかけとなったのが、2011年5月のパキスタン・アボッターバードでのウサーマ・ビン・ラーディン殺害である。これにより、「アメリカ対テロ」という二極化構造が終焉し、9.11同時多発テロ事件の10年の呪縛が幕を閉じた。この世界の流れの大きな変化に加え、アラブの春である。アラブ諸国で連鎖的に起こっている革命・社会改革運動は、ここにきて、さらに展開しようとしている。三つめの希望が、日本の原発問題という危機をうまく利用し、更に新しいエネルギー戦略という展開へ視線を向けはじめている、という希望である。このように、小杉氏は、2001年以来の数々の危機から脱却し、新しい世界の流れとそれを動かす民衆の力、そして人々の視線を未来へ向けるという希望を示した。
続いて、保坂氏から、ジハード主義に関する講演が行われた。まず、議論の前提となるジハードを担う組織について言及された。ジハード主義とは、カリフ制の樹立と、西洋法ではなくシャリーア(イスラーム法)のみによる統治を最終目的とした運動・組織である。彼らは、イスラーム世界を外から攻撃・占領する異教徒との戦いをジハードと定義し、その攻撃対象には異教徒の他、腐敗・堕落したムスリム政権も含まれ、手段は和平交渉ではなく武装闘争のみと掲げている。このような反体制運動が、自爆攻撃といった過激な暴力装置を取り入れることにより、一般の民衆から支持を失い、国外へと流れて国際・ジハード運動となる過程が明らかにされた。
また、こうしたジハード主義者ついて、大義、武器への偏愛とあわせて、殉教の美学という価値観が指摘された。それは、戦闘における殉教と、殉教志願による殉教というに大別され、これらの美学が自爆攻撃を生み出している。具体的には、イスラエルで使われたポスターや、ザルカーウィーの書簡、アブードゥジャーナやジュヘイマーン・オテイビーといった戦士らが寝ているときに見た夢が紹介され、華美で、情緒的で、陶酔や感情的な部分を強調する彼らのメンタリティが示された。
ジハード主義は、イデオロギーではなく、運動であり、美学である。その根底には、暴力という名のマグマが横たわっており、何かのきっかけで(例えば9.11といった形をとって)暴発し可視化された、というのが保坂氏の分析である。この、暴力のマグマは、地底の奥深くを常に流れており、1979年、1990年、2001年、2010年と、少しずつ噴火を繰り返している。そして、その暴力は、地底のマグマのように、一度の噴火で終了するものではなく、表面化しない時でもその地底を流れ続けている。
2人目の講演者として、山根氏から南アジアにおける9.11後の変化について発表がなされた。南アジアでは、1980年代の冷戦以降、ターリバーン、対テロ戦争を背景として、10年スパンのジハードが続けられてきた。1979年12月末のソ連軍アフガニスタン進行を契機に、隣国パキスタンは最前線国家として「対アフガニスタン難民支援」を実施してきた。これは実質的には、冷戦の西側諸国の代理戦争であり、中東諸国の莫大な支援をバックにした対ソ連・共産主義へのジハードでもあった。
1992年には、ムジャーヒディーン政権が成立し、内戦が勃発した。1994年にはターリバーンが結成され、さらに2年後には内戦が継続したまま、ターリバーン政権が樹立している。2000年代に入ると、9.11以降対テロ戦争が本格化した。
このような30年間もの間、戦いの現場になったパキスタンの連邦直轄部族地域(FATA)では、大きな社会変容がみられるようになった。すなわち、部族の慣習法(パシュトゥヌワレイ)と長老会議を中心に成り立っていた伝統的な社会秩序が、ジハードの拠点となったことによりアラブから武器と兵士が入ってきたことで崩れおちた。FATAの若年層からは慣習法とは異なるイスラーム教育を受けたものが台頭するようになり、現代的文脈でのジハードや、ターリバーンを支持するようになり、古い、伝統的な部族社会のヒエラルキーから外れるようになってきた。FATAの部族地域内政治は分裂し、地域内政治へと権力構造が変容した。これは、人口の少ない同地地域において、マドラサの数が急増していることからも見て取れる。
また、近年の動きとしては、パキスタン・ターリバーンの台頭や、カシュミールの急進派組織の残党兵を母体としたパンジービー・ターリバーンの成立が指摘された。
最後に小松氏から、ソ連解体から現代に至る中央アジアについて講演があった。1991年のソ連の解体は、中央アジア諸国の独立と国際社会への参入、市場経済への移行や権威主義的な政治体制の形成を促したと同時に、イスラームの覚醒と復興の加速を呼び起こした。
もともと、ソ連時代には政権によってイスラームは抑圧され、周縁化された。同地域の社会では世俗化や科学的無神論者の教育が推し進められ、イスラームは地下水脈のように、抑圧に耐える存在であった。しかしソ連末期から、宗教の自由化とイスラームの再生が起こり、モスクやマドラサが建設・再建されるようになった。世俗主義の政権、革新派、中道主義のムスリム宗務局の三極構造が成立し、この構造は独立後も維持された。
この三極のバランスの一方で、フェルガナ盆地の急進派青年組織や、ウズベキスタン・イスラーム運動、ターリバーン、アル・カーイダに支援されたイスラーム復興主義組織などと言った、急進派組織の台頭も著しい。1999年にはタシュケント爆発テロ事件が起き、2005年5月13日には、ウズベキスタンのアンディジャン州庁舎で、人質をとって占拠した武装集団と治安部隊との間で銃撃戦が起き、250名以上の死者がでた。
このように過激で不寛容な説教が流布している一方で、2007年に、タシュケント市内に壮大な金曜モスクが落成した。ウスマーンのクルアーン所蔵庫を備えたこの壮麗なモスクからは、政権がイスラームと両立した形で権威主義的な政治体制を維持したいという意図が垣間見られる。
続いて私市氏と末近氏が加わり、パネルディスカッションが行われた。まず、私市氏から、テロリズムとイスラーム原理主義についてコメントがなされた。モーリタニアやニジェールを中心に活動しているマグリブ・アルカーイダや、モロッコの公正開発党を例に出し、テロのローカル化、国際テロリズムとメディア、テロ組織の合法化など、9.11以前から起きていた変化が指摘された。末近氏からは、「対テロ戦争」と東アラブ地域のイスラーム主義運動についてコメントがなされた。同地域で活動するハマースもヒズボッラーも、元来は対テロ戦争に対するレジスタントとして結成されている。アフガニスタンとイラクという戦線の裏で、東アラブ地域では、70年代から「元祖対テロ戦争」が続いていることが強調された。
さらに、ディスカッションでは、暴力/非暴力の問題、テロの敷居の下がったきっかけとしてのアルジェリアの事件、パキスタンでのメディアと選挙、部族と現代社会、日本の教育の役割などにも話題が広がった。特に、なぜアラブの春の中で、イスラームの色が出てこないのかという議論が白熱した。これに対し、日常のイスラームの実践は保証されており争点になっておらず、イスラームという名が出ると欧米が無条件にバッシングする、戦略的抑制だという小杉氏の指摘が新鮮であった。
南アジア、中央アジア、東西アラブの専門家が揃い、文明論的なマクロな視点も、インターネットメディアなどのミクロな議論もかわされ、多角的なシンポジウムとなった。9.11を風化させないこと、アラブで起こっていることを伝え続けていくことが、現代のイスラーム地域研究の役割として再認識された。
最初に、小杉氏から「危機と希望の新時代へ」と題された基調講演がなされた。小杉氏は、まず3つの危機として、(1)反テロ戦争、(2)2010年12月のチュニジアを契機として中東諸国に広まったアラブの春、(3)日本の原子力エネルギー問題を指摘した。テロに対して反テロ戦争が仕掛けられ、さらにそれに反撃するテロ攻撃という負のスパイラルの中で、双方から22万人を越す犠牲者が発生し、経済的損失も計り知れない。また、反テロ戦争の中で、アラブの独裁という体制が終わらなかったことも問題として挙げられる。これらのテロ攻撃に対する解決策は、反テロ戦争だけではなく、平和や非暴力という選択肢もありえるはずである。
2つめの危機であるアラブの春は、民衆の革命という形で表面化してきたが、根本的には石油をめぐる国際問題につながっている。例えばシリアでは、既にデモが長期化しており、市民の被害や経済の停滞、人道的な問題も表面化している。しかし、その国土に石油を有しないシリアの国内情勢は取り沙汰されない。一方で、石油の埋蔵量の多いサウジでは、このまま何も起こって欲しくない、と利権をめぐる諸外国が圧力をかける構造が出来上がっている。さらに、これらは2011年3月11日の東日本大震災を契機に浮上した、原発を初めとする日本国内のエネルギー問題ともつながっている。
これらの危機に対し、小杉氏は「10年目」に浮き上がりだした希望を見いだしている。そのきっかけとなったのが、2011年5月のパキスタン・アボッターバードでのウサーマ・ビン・ラーディン殺害である。これにより、「アメリカ対テロ」という二極化構造が終焉し、9.11同時多発テロ事件の10年の呪縛が幕を閉じた。この世界の流れの大きな変化に加え、アラブの春である。アラブ諸国で連鎖的に起こっている革命・社会改革運動は、ここにきて、さらに展開しようとしている。三つめの希望が、日本の原発問題という危機をうまく利用し、更に新しいエネルギー戦略という展開へ視線を向けはじめている、という希望である。このように、小杉氏は、2001年以来の数々の危機から脱却し、新しい世界の流れとそれを動かす民衆の力、そして人々の視線を未来へ向けるという希望を示した。
続いて、保坂氏から、ジハード主義に関する講演が行われた。まず、議論の前提となるジハードを担う組織について言及された。ジハード主義とは、カリフ制の樹立と、西洋法ではなくシャリーア(イスラーム法)のみによる統治を最終目的とした運動・組織である。彼らは、イスラーム世界を外から攻撃・占領する異教徒との戦いをジハードと定義し、その攻撃対象には異教徒の他、腐敗・堕落したムスリム政権も含まれ、手段は和平交渉ではなく武装闘争のみと掲げている。このような反体制運動が、自爆攻撃といった過激な暴力装置を取り入れることにより、一般の民衆から支持を失い、国外へと流れて国際・ジハード運動となる過程が明らかにされた。
また、こうしたジハード主義者ついて、大義、武器への偏愛とあわせて、殉教の美学という価値観が指摘された。それは、戦闘における殉教と、殉教志願による殉教というに大別され、これらの美学が自爆攻撃を生み出している。具体的には、イスラエルで使われたポスターや、ザルカーウィーの書簡、アブードゥジャーナやジュヘイマーン・オテイビーといった戦士らが寝ているときに見た夢が紹介され、華美で、情緒的で、陶酔や感情的な部分を強調する彼らのメンタリティが示された。
ジハード主義は、イデオロギーではなく、運動であり、美学である。その根底には、暴力という名のマグマが横たわっており、何かのきっかけで(例えば9.11といった形をとって)暴発し可視化された、というのが保坂氏の分析である。この、暴力のマグマは、地底の奥深くを常に流れており、1979年、1990年、2001年、2010年と、少しずつ噴火を繰り返している。そして、その暴力は、地底のマグマのように、一度の噴火で終了するものではなく、表面化しない時でもその地底を流れ続けている。
2人目の講演者として、山根氏から南アジアにおける9.11後の変化について発表がなされた。南アジアでは、1980年代の冷戦以降、ターリバーン、対テロ戦争を背景として、10年スパンのジハードが続けられてきた。1979年12月末のソ連軍アフガニスタン進行を契機に、隣国パキスタンは最前線国家として「対アフガニスタン難民支援」を実施してきた。これは実質的には、冷戦の西側諸国の代理戦争であり、中東諸国の莫大な支援をバックにした対ソ連・共産主義へのジハードでもあった。
1992年には、ムジャーヒディーン政権が成立し、内戦が勃発した。1994年にはターリバーンが結成され、さらに2年後には内戦が継続したまま、ターリバーン政権が樹立している。2000年代に入ると、9.11以降対テロ戦争が本格化した。
このような30年間もの間、戦いの現場になったパキスタンの連邦直轄部族地域(FATA)では、大きな社会変容がみられるようになった。すなわち、部族の慣習法(パシュトゥヌワレイ)と長老会議を中心に成り立っていた伝統的な社会秩序が、ジハードの拠点となったことによりアラブから武器と兵士が入ってきたことで崩れおちた。FATAの若年層からは慣習法とは異なるイスラーム教育を受けたものが台頭するようになり、現代的文脈でのジハードや、ターリバーンを支持するようになり、古い、伝統的な部族社会のヒエラルキーから外れるようになってきた。FATAの部族地域内政治は分裂し、地域内政治へと権力構造が変容した。これは、人口の少ない同地地域において、マドラサの数が急増していることからも見て取れる。
また、近年の動きとしては、パキスタン・ターリバーンの台頭や、カシュミールの急進派組織の残党兵を母体としたパンジービー・ターリバーンの成立が指摘された。
最後に小松氏から、ソ連解体から現代に至る中央アジアについて講演があった。1991年のソ連の解体は、中央アジア諸国の独立と国際社会への参入、市場経済への移行や権威主義的な政治体制の形成を促したと同時に、イスラームの覚醒と復興の加速を呼び起こした。
もともと、ソ連時代には政権によってイスラームは抑圧され、周縁化された。同地域の社会では世俗化や科学的無神論者の教育が推し進められ、イスラームは地下水脈のように、抑圧に耐える存在であった。しかしソ連末期から、宗教の自由化とイスラームの再生が起こり、モスクやマドラサが建設・再建されるようになった。世俗主義の政権、革新派、中道主義のムスリム宗務局の三極構造が成立し、この構造は独立後も維持された。
この三極のバランスの一方で、フェルガナ盆地の急進派青年組織や、ウズベキスタン・イスラーム運動、ターリバーン、アル・カーイダに支援されたイスラーム復興主義組織などと言った、急進派組織の台頭も著しい。1999年にはタシュケント爆発テロ事件が起き、2005年5月13日には、ウズベキスタンのアンディジャン州庁舎で、人質をとって占拠した武装集団と治安部隊との間で銃撃戦が起き、250名以上の死者がでた。
このように過激で不寛容な説教が流布している一方で、2007年に、タシュケント市内に壮大な金曜モスクが落成した。ウスマーンのクルアーン所蔵庫を備えたこの壮麗なモスクからは、政権がイスラームと両立した形で権威主義的な政治体制を維持したいという意図が垣間見られる。
続いて私市氏と末近氏が加わり、パネルディスカッションが行われた。まず、私市氏から、テロリズムとイスラーム原理主義についてコメントがなされた。モーリタニアやニジェールを中心に活動しているマグリブ・アルカーイダや、モロッコの公正開発党を例に出し、テロのローカル化、国際テロリズムとメディア、テロ組織の合法化など、9.11以前から起きていた変化が指摘された。末近氏からは、「対テロ戦争」と東アラブ地域のイスラーム主義運動についてコメントがなされた。同地域で活動するハマースもヒズボッラーも、元来は対テロ戦争に対するレジスタントとして結成されている。アフガニスタンとイラクという戦線の裏で、東アラブ地域では、70年代から「元祖対テロ戦争」が続いていることが強調された。
さらに、ディスカッションでは、暴力/非暴力の問題、テロの敷居の下がったきっかけとしてのアルジェリアの事件、パキスタンでのメディアと選挙、部族と現代社会、日本の教育の役割などにも話題が広がった。特に、なぜアラブの春の中で、イスラームの色が出てこないのかという議論が白熱した。これに対し、日常のイスラームの実践は保証されており争点になっておらず、イスラームという名が出ると欧米が無条件にバッシングする、戦略的抑制だという小杉氏の指摘が新鮮であった。
南アジア、中央アジア、東西アラブの専門家が揃い、文明論的なマクロな視点も、インターネットメディアなどのミクロな議論もかわされ、多角的なシンポジウムとなった。9.11を風化させないこと、アラブで起こっていることを伝え続けていくことが、現代のイスラーム地域研究の役割として再認識された。
報告者:須永恵美子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)