-
SOIAS・KIAS共催ワークショップ
(2011年7月23日 於上智大学)
タイトル:中道派概念の再考
趣旨説明:粕谷元(日本大学)
報告1:佐々木拓雄(久留米大学)
「インドネシア政治における「イスラーム中道派」~ユドヨノ政権とアフマディヤ問題へのその対処~」
報告2:横田貴之(日本大学)
「ムスリム同胞団における中道概念の変遷」
報告3:丸山大介(京都大学大学院)
「現代スーダンにおけるスーフィズムとイスラーム主義-タリーカと政治との関わりを中心に-」
コメンテーター: 山根聡(大阪大学)
日時:2011年7月23日(土曜日)13:00-17:00
会場:上智大学「市谷」キャンパス 入口右手 研究棟601会議室
趣旨説明:粕谷元(日本大学)
上智大学拠点文科省事業公募研究「イスラーム社会の世俗化と世俗主義」代表の粕谷元氏から、4年目を迎えた同研究の進捗状況及び、本日のワークショップの位置づけが述べられた。「世俗化と世俗主義」研究では、世界各地のイスラーム化やイスラーム主義の動向を、世俗化や世俗主義との関連で論じ、国別/地域間比較や類型化を試みることを目的としてsスタートした。研究を進めるにつれ、世俗化や世俗主義の定義が研究者間で多様であることが顕在化したため、現在では、トルコのラーイクリキ研究、また政教関係を論じる中での国別/地域間比較及び類型化を試みていることが述べられた。本ワークショップは、2年前に京都大学で実施された第1回共催ワークショップに続く、第2回目という位置づけである。「中道派」とは、トレンドなのか、思考なのか、理論なのか、19世紀後半から20世紀初頭にかけ、伝統派と欧化主義者の間のことを指した「中道派」が、現在では、何と何の間の概念なのか、各国の事例を通じて議論を展開したい、と問題提起がなされた。
報告1:佐々木拓雄(久留米大学)「インドネシア政治における「イスラーム中道派」 ~ユドヨノ政権とアフマディヤ問題へのその対処~」
報告は、ユドヨノ現政権を、インドネシア政治に昨今顕在化した「イスラーム中道派」の象徴と捉え、「イスラーム中道派」が出現した歴史・社会的背景とユドヨノ政権のイスラームに対する姿勢を概観した上で、イスラームの異端とされるアフマディヤに対するユドヨノ政権の対処を事例に、インドネシアにおける「イスラーム中道派」を論じた。
佐々木氏は、建国前後のインドネシアでは、世俗主義的ナショナリストとイスラミストによる国家体制をめぐる論争が活発だったこと、しかし、1960年代後半に始まるスハルト体制下では、ムスリムとしての自覚に富むが、イスラミストでも、アバンガン/世俗主義者でもない新しい社会層が出現したとする。彼らは、佐々木氏によれば、「イスラーム的」や「反イスラーム的」という言葉では括れない、「反・反イスラーム」的な人々である。
また、ユドヨノ現政権は、宗教政治から脱却し、経済・労働・汚職問題など具体的な課題を解決する一方、ムスリムとしてのアイデンティティを強調し、こうした「反・反イスラーム」社会層の支持を集めている。そして佐々木氏は、ユドヨノ政権と「反・反イスラーム」社会層に象徴される「イスラーム中道派」は、イスラミストと世俗主義者の間に位置する存在であることを明らかにした。
近年、その存在が異端視され、イスラーム強硬派による迫害を受けているアフマディヤ問題に対し、ユドヨノ政権は2008年6月、「3閣僚による合同決定書」を発令した。これは、暴力行為に対する警告をと共に、アフマディヤの教義を事実上否認し、その布教活動を制限するものであった。佐々木氏は、この合同決定書について、アフマディヤの教義を否定することでイスラミスト側の主張をくみ取る一方、アフマディヤの活動を禁制することはなく、継続を許していると分析する。そしてこの合同決定書は、現実主義的な中道派が、イスラミストに接近したことの代価であり、「最小限の制度的イスラーム化」として捉える事ができると結論づけた。
フロアからは、アフマディヤメンバーの社会階層や活動の資金源、インドネシアにおける人権団体の傾向、イスラミストの定義などについて質問が挙がった。これに対し、佐々木氏は、アフマディヤのメンバーの多くはインテリ層であり、近年では両親がアフマディヤである第2世代が増加していること、資金源はメンバーに多い富裕層からの拠出の他、イギリスなどヨーロッパからの資金流入の可能性についても示唆した。インドネシアの人権団体には、そもそも世俗的なグループと、イスラーム既存組織に属しながら、人権に目覚めるイスラーム・リベラルと呼ばれる人々の2種類がいることを挙げ、一方、イスラミストとは、イスラーム原理主義者及びイスラーム主義者のことを指すと答えた。佐々木氏の言うイスラミストとは、イスラーム法に基づく国家体制を目指す人々であり、その中には、政党を作り活動する者もいれば、暴力行為に走るものもいる。さらに2005年以降、対アフマディヤに対する暴力件数が増加したことの理由について、佐々木氏は、2005年にイスラミストが多いインドネシア・ウラマー評議会(MUI)から、アフマディヤの教義がイスラームを逸脱しているとするファトアが出されたことを挙げた。
報告2:横田貴之(日本大学)「ムスリム同胞団における中道概念の変遷」
報告は、現代エジプト政治及びムスリム同胞団を専門にする横田氏による、同胞団の「中道」概念の変遷を論じるものである。報告の前提として、今年初頭のエジプト政変を受け、今年6月に自由公正党(FJP)を創設したムスリム同胞団では、政治活動への比重を高めた結果、「中道」への言及が減少していることが述べられた。報告では、20世紀前半、20世紀後半、2004年以降の3つの時代区分が使用された。
創設者ハサン・バンナーの思想的影響力が強かった20世紀前半の同胞団を、横田氏はバンナー期と呼ぶ。この時期の同胞団には、欧化主義者と伝統墨守派どちらにも与せず中庸の道を目指すマナール派の影響を強く受けていた。バンナー率いる同胞団は、マナール派の思想を踏まえ、大衆運動の次元で新たな領域を開拓した。横田氏は、これを行動主義と呼ぶ。また横田氏は、バンナー思想の特徴として、特定の領域に限らず社会全体のイスラーム復興を目指す包括主義、個人→家庭→社会→国家と非急進的、漸進的に改革を進めていこうとする段階主義を挙げ、これらが現在に至るまで同胞団の基本理念になっていることを強調した。この時期の同胞団の活動もまた、行動主義、包括主義、段階主義に基づいて多種多様な展開が見られたことが述べられた。
20世紀後半の同胞団は、ナセル政権による弾圧とサーダート政権下での復活を経験した。その結果、同胞団内で、バンナーの思想を踏襲するバンナー主義と、より急進的なクトゥブ主義が対立するようになったが、主流派である前者が後者を払しょくする形で、合法活動路線を堅持した。しかしながら、横田氏によれば、復活以降の同胞団の「中道」は、バンナー期の「中道」と位置づけが異なっているという。この時期には、急進的なイスラーム復興運動と、イスラームを排除する世俗主義が存在しており、同胞団は、両者の間で、非暴力的な改革を志向する中道派イスラーム復興運動を目指したのである。代表的論者として、横田氏はユースフ・カラダーウィを挙げ、カラダーウィの言う「イスラーム的中道派潮流」の要素を提示した。1984年には人民議会選挙に初参加し、1987年選挙では、実質的な最大野党になったことも述べられた。
これに対し、2004年以降の同胞団は、横田氏によれば、民主化要求の高まりの中、改革や民主化運動の担い手として、新たな「中道派」像を目指している。従来は、急進派と世俗主義の間の中道を目指していた同胞団が、近年では、急進派と非民主的で権威主義的なムバーラク政権との間の、民主主義や非暴力的改革を強調する中道を目指すようになったことが論じられた。
各時代の同胞団の中道派概念の変遷を踏まえた上で、横田氏は、同胞団の活動は社会運動であり、その時々の人々の意思や要望をくみ上げてきた、同胞団における中道派概念も、硬直的なものではなく、社会状況に応じ変化する柔軟で動態的なものである、と結論づけた。
フロアからは、エジプト国内のアズハル機構やワサト党との関係、またトルコのイスラーム政党である公正発展党(AKP)やインドネシアの福祉正義党(PKS)との関係などに関する質問が挙がった。これに対し横田氏は、同胞団とアズハルは目指すものを共有しているはずだが、アズハルのウラマーたちは、そこまで政治的活動に出てこないであろう、また単独で選挙に勝利できないと自認するワサト党は、今後、FJPとの選挙協力に向かうであろう、との推測を示した。さらに、インドネシアのPKSに似て、FJPの主要メンバーである同胞団の70年世代の人たちは、"イスラーム"を声高に叫ぶことを意識的に避ける傾向にあり、それ以前の世代の人たちとの断絶が大きいと述べた。また、同胞団は、トルコのAKPが、"イスラーム国家樹立"を求めずに、イスラーム政党として大きな勢力を維持している点を評価し、学ぼうとしているのではないか、と述べた。
また、近年の同胞団が"中道"に言及しなくなったことについて、同胞団=中道というイメージがすでに定着したからではないか、とか、そもそも同胞団内部には様々な思想が混在し、メンバーの出入りも多い"アメーバー的"組織だからではないか、というフロアから指摘から、議論が展開した。
上智大学拠点文科省事業公募研究「イスラーム社会の世俗化と世俗主義」代表の粕谷元氏から、4年目を迎えた同研究の進捗状況及び、本日のワークショップの位置づけが述べられた。「世俗化と世俗主義」研究では、世界各地のイスラーム化やイスラーム主義の動向を、世俗化や世俗主義との関連で論じ、国別/地域間比較や類型化を試みることを目的としてsスタートした。研究を進めるにつれ、世俗化や世俗主義の定義が研究者間で多様であることが顕在化したため、現在では、トルコのラーイクリキ研究、また政教関係を論じる中での国別/地域間比較及び類型化を試みていることが述べられた。本ワークショップは、2年前に京都大学で実施された第1回共催ワークショップに続く、第2回目という位置づけである。「中道派」とは、トレンドなのか、思考なのか、理論なのか、19世紀後半から20世紀初頭にかけ、伝統派と欧化主義者の間のことを指した「中道派」が、現在では、何と何の間の概念なのか、各国の事例を通じて議論を展開したい、と問題提起がなされた。
報告1:佐々木拓雄(久留米大学)「インドネシア政治における「イスラーム中道派」 ~ユドヨノ政権とアフマディヤ問題へのその対処~」
報告は、ユドヨノ現政権を、インドネシア政治に昨今顕在化した「イスラーム中道派」の象徴と捉え、「イスラーム中道派」が出現した歴史・社会的背景とユドヨノ政権のイスラームに対する姿勢を概観した上で、イスラームの異端とされるアフマディヤに対するユドヨノ政権の対処を事例に、インドネシアにおける「イスラーム中道派」を論じた。
佐々木氏は、建国前後のインドネシアでは、世俗主義的ナショナリストとイスラミストによる国家体制をめぐる論争が活発だったこと、しかし、1960年代後半に始まるスハルト体制下では、ムスリムとしての自覚に富むが、イスラミストでも、アバンガン/世俗主義者でもない新しい社会層が出現したとする。彼らは、佐々木氏によれば、「イスラーム的」や「反イスラーム的」という言葉では括れない、「反・反イスラーム」的な人々である。
また、ユドヨノ現政権は、宗教政治から脱却し、経済・労働・汚職問題など具体的な課題を解決する一方、ムスリムとしてのアイデンティティを強調し、こうした「反・反イスラーム」社会層の支持を集めている。そして佐々木氏は、ユドヨノ政権と「反・反イスラーム」社会層に象徴される「イスラーム中道派」は、イスラミストと世俗主義者の間に位置する存在であることを明らかにした。
近年、その存在が異端視され、イスラーム強硬派による迫害を受けているアフマディヤ問題に対し、ユドヨノ政権は2008年6月、「3閣僚による合同決定書」を発令した。これは、暴力行為に対する警告をと共に、アフマディヤの教義を事実上否認し、その布教活動を制限するものであった。佐々木氏は、この合同決定書について、アフマディヤの教義を否定することでイスラミスト側の主張をくみ取る一方、アフマディヤの活動を禁制することはなく、継続を許していると分析する。そしてこの合同決定書は、現実主義的な中道派が、イスラミストに接近したことの代価であり、「最小限の制度的イスラーム化」として捉える事ができると結論づけた。
フロアからは、アフマディヤメンバーの社会階層や活動の資金源、インドネシアにおける人権団体の傾向、イスラミストの定義などについて質問が挙がった。これに対し、佐々木氏は、アフマディヤのメンバーの多くはインテリ層であり、近年では両親がアフマディヤである第2世代が増加していること、資金源はメンバーに多い富裕層からの拠出の他、イギリスなどヨーロッパからの資金流入の可能性についても示唆した。インドネシアの人権団体には、そもそも世俗的なグループと、イスラーム既存組織に属しながら、人権に目覚めるイスラーム・リベラルと呼ばれる人々の2種類がいることを挙げ、一方、イスラミストとは、イスラーム原理主義者及びイスラーム主義者のことを指すと答えた。佐々木氏の言うイスラミストとは、イスラーム法に基づく国家体制を目指す人々であり、その中には、政党を作り活動する者もいれば、暴力行為に走るものもいる。さらに2005年以降、対アフマディヤに対する暴力件数が増加したことの理由について、佐々木氏は、2005年にイスラミストが多いインドネシア・ウラマー評議会(MUI)から、アフマディヤの教義がイスラームを逸脱しているとするファトアが出されたことを挙げた。
報告2:横田貴之(日本大学)「ムスリム同胞団における中道概念の変遷」
報告は、現代エジプト政治及びムスリム同胞団を専門にする横田氏による、同胞団の「中道」概念の変遷を論じるものである。報告の前提として、今年初頭のエジプト政変を受け、今年6月に自由公正党(FJP)を創設したムスリム同胞団では、政治活動への比重を高めた結果、「中道」への言及が減少していることが述べられた。報告では、20世紀前半、20世紀後半、2004年以降の3つの時代区分が使用された。
創設者ハサン・バンナーの思想的影響力が強かった20世紀前半の同胞団を、横田氏はバンナー期と呼ぶ。この時期の同胞団には、欧化主義者と伝統墨守派どちらにも与せず中庸の道を目指すマナール派の影響を強く受けていた。バンナー率いる同胞団は、マナール派の思想を踏まえ、大衆運動の次元で新たな領域を開拓した。横田氏は、これを行動主義と呼ぶ。また横田氏は、バンナー思想の特徴として、特定の領域に限らず社会全体のイスラーム復興を目指す包括主義、個人→家庭→社会→国家と非急進的、漸進的に改革を進めていこうとする段階主義を挙げ、これらが現在に至るまで同胞団の基本理念になっていることを強調した。この時期の同胞団の活動もまた、行動主義、包括主義、段階主義に基づいて多種多様な展開が見られたことが述べられた。
20世紀後半の同胞団は、ナセル政権による弾圧とサーダート政権下での復活を経験した。その結果、同胞団内で、バンナーの思想を踏襲するバンナー主義と、より急進的なクトゥブ主義が対立するようになったが、主流派である前者が後者を払しょくする形で、合法活動路線を堅持した。しかしながら、横田氏によれば、復活以降の同胞団の「中道」は、バンナー期の「中道」と位置づけが異なっているという。この時期には、急進的なイスラーム復興運動と、イスラームを排除する世俗主義が存在しており、同胞団は、両者の間で、非暴力的な改革を志向する中道派イスラーム復興運動を目指したのである。代表的論者として、横田氏はユースフ・カラダーウィを挙げ、カラダーウィの言う「イスラーム的中道派潮流」の要素を提示した。1984年には人民議会選挙に初参加し、1987年選挙では、実質的な最大野党になったことも述べられた。
これに対し、2004年以降の同胞団は、横田氏によれば、民主化要求の高まりの中、改革や民主化運動の担い手として、新たな「中道派」像を目指している。従来は、急進派と世俗主義の間の中道を目指していた同胞団が、近年では、急進派と非民主的で権威主義的なムバーラク政権との間の、民主主義や非暴力的改革を強調する中道を目指すようになったことが論じられた。
各時代の同胞団の中道派概念の変遷を踏まえた上で、横田氏は、同胞団の活動は社会運動であり、その時々の人々の意思や要望をくみ上げてきた、同胞団における中道派概念も、硬直的なものではなく、社会状況に応じ変化する柔軟で動態的なものである、と結論づけた。
フロアからは、エジプト国内のアズハル機構やワサト党との関係、またトルコのイスラーム政党である公正発展党(AKP)やインドネシアの福祉正義党(PKS)との関係などに関する質問が挙がった。これに対し横田氏は、同胞団とアズハルは目指すものを共有しているはずだが、アズハルのウラマーたちは、そこまで政治的活動に出てこないであろう、また単独で選挙に勝利できないと自認するワサト党は、今後、FJPとの選挙協力に向かうであろう、との推測を示した。さらに、インドネシアのPKSに似て、FJPの主要メンバーである同胞団の70年世代の人たちは、"イスラーム"を声高に叫ぶことを意識的に避ける傾向にあり、それ以前の世代の人たちとの断絶が大きいと述べた。また、同胞団は、トルコのAKPが、"イスラーム国家樹立"を求めずに、イスラーム政党として大きな勢力を維持している点を評価し、学ぼうとしているのではないか、と述べた。
また、近年の同胞団が"中道"に言及しなくなったことについて、同胞団=中道というイメージがすでに定着したからではないか、とか、そもそも同胞団内部には様々な思想が混在し、メンバーの出入りも多い"アメーバー的"組織だからではないか、というフロアから指摘から、議論が展開した。
文責:野中葉(慶應義塾大学SFC研究所 上席所員)
丸山大介氏(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程)による発表は、「現代スーダンにおけるスーフィズムとイスラーム主義―タリーカと政治との関わりを中心に―」というタイトルに象徴されるように、現代スーダンにおいてスーフィズムとイスラーム主義の両者がどのような関係をとり結んでいるのか、タリーカとしてのルカイニーヤ教団を事例に考察するものであった。発表の目的は大きくわけて2つあった。第1に、1989年以降2011年までの政府(北部・国民会議党)とタリーカとの関係につき、政策におけるスーフィズム・タリーカの位置づけを概観し、スーフィズム・タリーカを巡る政教関係の諸相を明らかにすること、第2に、タリーカ・スーフィーヤ・サラフィーヤを自称するルカイニーヤ教団を具体的事例として取り上げ、スーフィーとサラフィーの中道を標榜するタリーカにおける中道概念を探ること、である。
第1の目的について、丸山氏はまずスーダンが独立を果たした1956年以降のタリーカと北部政権の関係について歴史的な背景を説明した。そこでは、マフディー系を支持基盤とするウンマ党とハトミー教団を支持基盤とする民主統一党という二大政党を前提に、イスラーム憲章戦線といったイスラーム主義勢力の台頭を受けて、ヌマイリー政権期(1971-1985)には上記二党に対抗する目的でその支持基盤としてハトミー教団以外のタリーカが優遇され、その政治的影響力が増していったことが指摘された。そして1986年4月の選挙でウンマ党が第一党に選出されて第三党の国民イスラーム戦線との結びつきを深めた後、後者が1989年にクーデタを起こして現在にまで至る政権を樹立し、その過程でハトミー教団以外のタリーカと連携を強めていったことが指摘された。
また南部スーダン(現・南スーダン共和国)との関わりに関する歴史的背景の説明の下りでは、アラブ・イスラーム対アフリカ・キリスト教という大まかな南北構図のもとに独立前後から内戦が続けられ、その過程で民族的・宗教的対立を利用した政治的弾圧がおこなわれたこと、また2005年に国民会議党(NCP)とスーダン人民解放運動(SPLM)との間で包括的和平協定が結ばれることで、両者を頂点とする独裁体制と北部におけるイスラームの政治利用が可能になったこと、そして2010年の総選挙では、各タリーカが政権(NCP)を支持する中で北部ではNCPが、南部ではSPLMが勝利を収め、2011年のレファレンダムによって南部独立が確定し、7月9日に南スーダン共和国として独立が達成された経緯を明らかにした。以上から丸山氏は、タリーカが歴史的に政権運営や政党選挙において重要な役割を果たし、現代スーダンの政治動向に密接に結びついている点を指摘した。
第2の目的については、「第一部 現代スーダンにおけるスーフィズム・タリーカとイスラーム主義との関係」と「第二部 タリーカにおける中道概念」の2セクションから考察を行うものであった。第一部では、シャリーア施行に基づきイスラーム国家の建設を目指す現政権のイスラーム主義運動の文脈におけるスーフィズム・タリーカの実像について、ハサン・トゥラービーの『スーダンにおけるイスラーム運動―発展・達成・方法』の丁寧な読解から分析を行った。そこではまず、近代的なイスラーム運動と対置されるかたちでスーフィー・タリーカがサラフィーとともに伝統的セクターに位置づけられ、シャイフへの盲従や過度の儀礼などといった側面がイスラームからの逸脱(ビドア)として否定的に評価される一方、イスラームの普及を促した教育面での役割、自己犠牲の精神を高揚させるといったジハードへの親和性が指摘され、シャリーア施行やイスラーム国家確立=イスラーム運動への貢献が確認され肯定的にも評価されている点が確認された。丸山氏によると、トゥラービーはスーフィズムやタリーカの勢力を一概に否定せず、むしろイスラームの統一やイスラーム運動の強化のために積極的に取り込みを図る対象として位置づけているという。
しかし、この時に取り込みが図られるスーフィズムやタリーカは、ある種の改革を経る必要が求められた。丸山氏はこの点を「タアスィール(ta'sil)」と「ズィクルの民(ahl al-dhikr)」という概念を中心に考察を行った。「タアスィール」は1970年代から登場したスーダンのイスラーム論を包括的に特色づけるキータームであり、クルアーンやスンナに依拠したイスラームへの原点回帰を意味する。そのような原点志向のイスラーム論の台頭を受け、スーフィズムもまた原点に返す必要が説かれ、この時に「ズィクルの民」という概念・用語が導入されたという。「ズィクルの民」とはすなわち神を想起する人々=ムスリムのことである。丸山氏によると、「ズィクルの民」という用語導入の背景には、①救国革命を背景としたイスラーム計画において、ズィクルが精神の治療や浄化の手段として位置づけられ、汚れたイスラームから元の清浄なイスラームへの回帰の象徴として機能すること、②ズィクルという語の使用によって、新旧の区別やイスラーム主義とスーフィズムという区別が無化されること、③ズィクルの民のもとでの連帯が説かれることで、南部に対するジハードへの動員が図られることがあったという。またこの時「ズィクルの民」として想定される人々として、スーフィーやクルアーン学者などズィクルに直接関係のある人々やモスクやハルワの建設に尽力した人々など間接的に関係のある人々が仰がれる一方、ヌマイリーやバシール、トゥラービーといった政治家あるいはイスラーム普及に貢献した人々もまた『ズィクルの民辞典』に登場して「ズィクルの民」に数え上げられるという。
以上のような理念を備える「ズィクル」の民がスーダン政治において具体的に可視化したのが、1993年に開催された「ズィクルとズィクルの民に関する国際会議」と1995年に設置された委員会「ズィクルとズィクルの民国民評議会(al-Majlis al-Qawmi li al-Dhikr wa al-Dhakirin)」である。前者については、クルアーンとスンナに基づきズィクルの重要性を説くという趣旨のもと、イスラーム計画の一環(タアスィールの完遂)、現政権への支持、シャリーア国家建設の希求を国内外へアピールすることを目的に開催されたもので、そこではスーダンにおけるズィクルの民の連帯及び個人→社会→国家という段階主義的なイスラーム運動の政治的方針が確認されたという。他方で後者については、政権に対するスーフィーの支持を集める政治的目的のもとに宗教指導者省管轄下に設置されたもので、そこでは関連する雑誌や本の出版、タリーカへの支援、他国シャイフのスーダン訪問の支援が行われているという。ここで丸山氏によると、「ズィクルとズィクルの民国民評議会」が設置される過程で、「ズィクルの民」の間で団結・連帯を図る第一段階と「キブラの民(ahl al-qibla)」の間で団結・連帯を図る第二段階から構成される二段階論が定式化されたという。第一段階においては南部とのジハードを想定しムスリムとしての団結を説くことで、イスラームと非イスラームとの区別を明確化する一方、第二段階においてはスーフィーを連想しやすいズィクルではなく礼拝と結びつけることで、ムスリム間の差異を最大限まで解消し、イスラームの一体性を強く志向するものであるという。
こうして丸山氏は、第一部について、①ズィクルの民という包括的な概念の導入には、ムスリム内の差異をズィクルの名のもとで解消し、イスラームのもとでの統一を促す意図が認められること、②ズィクルの民からキブラの民へという二段階論の定式化により、ズィクルに起因するスーフィーのニュアンスが消え、イスラーム主義者、スーフィー、サラフィーなどのさまざまな属性を一括することのできる中立的あるいは中道的な概念へと変容し、ムスリムとしての一体性をさらに強調する論理へと展開していった、と報告をまとめた。
続く第二部においては、第一部における議論を前提に、現代スーダンに存在するタリーカであるルカイニーヤ教団を具体的事例として、スーフィーとサラフィーの間で揺れ動くタリーカの中道概念について考察と分析がなされた。ルカイニーヤ教団は正式名称をal-Tariqa al-Qur'aniya al-Sunniya al-Muhammadiya al-Rukayniyaといい、原点回帰の心と再生の精神を結合した中道の方法(manhaj-ha al-wasatiya)をとるスーフィー・サラフィー教団(tariqa sufiya salafiya)を標榜し、自称として「中道」概念を用いる特色を持つ。教団の発祥については、その祖を初代シャイフ、ムハンマド・アフマド・ルカイニー(1887-1964)にもち、同シャイフが1918年6月23日にタリーカを開く許可をアッラーから得ることから始まる。ルカイニーヤ教団誕生の歴史的経緯は、より具体的には、ムハンマド・アフマドが夢の中で直接アッラーとムハンマドからイスラームに関する知識とタリーカ開設の許可を得たことに由来し、ゆえに同師はアッラーが直接選んだシャイフと位置づけられ、同師を頂点とする教団は神が選んだ教団(tariqa ijtiba'iya)とみなされている。そこでは、他のタリーカとの血縁的・道統的な接点はなく、アッラーとムハンマドとの直接的な関係が強調されているという。そしてムハンマド・アフマドを初代として代々シャイフ位が継承され、タリーカの規模も拡大し、1992年には首都ハルツームにもザーウィヤを開設するまでに至っている。
ここで丸山氏は、同教団におけるタサウウフとサラフの関係について考察を試みる。それによると、同教団におけるタサウウフの解釈はその教育的側面が重視され、預言者とその教友を模範としたイスラームの方法に基づいた教育、またサラフの方法に基づく教育が志向され、それらの教育を施されたスーフィーは完全なムスリム(muslim kamil)として認められるという。また丸山氏によると、サラフに沿った教育は内面(dakhil)の教育に特化され、時代により変化する生活様式などの外面(mazhar)よりも重視されており、ここにおいて従来のイスラーム研究で一般的な「サラフィー:外⇔スーフィー:内」という概念図式が転倒しているという。
さらに、丸山氏はルカイニーヤ教団と他のタリーカとの差異について、①ズィクルとファナーの解釈、②預言者との関係、スィルスィラ論、女性の立場、という2つの立場から説明を行った。第1のズィクルとファナーの解釈について、まず前者のズィクルからみると、同教団はクルアーン39章23節を根拠にズィクルの重要性を説く一方、後者のファナーについては、僕が自己の目的を神が求めるものへと置き換える、すなわち自己の目的から神の目的へと脱し、神の目的のみを目指すことと定式化されており、神との合一という伝統的なファナー概念から離れている点が指摘された。同時に、ズィクルやファナーの主体がアッラーに忠実なムスリムであるという倫理的な側面がハディースを基に強調されてもいるという。
第2の預言者との関係、スィルスィラ論、女性の立場については、まず同教団は預言者との直接的な結びつきを強調しており、上述のように初代シャイフは神に選ばれ、ムハンマドから直接知識を与えられたとみなされていることの他、聖者祭は開催せずに預言者生誕祭に集約されること、またスーダンによく見られるドーム型聖者廟(qubba)ではなく墓所(?ar??)がつくられる傾向があることが指摘された。またスィルスィラについては、同教団はそれを必要と認めておらず、あくまでも神や預言者との直接的なつながりのみが強調されてシャイフの一系列を過大評価するものではないことが指摘された。最後に同教団では、宗教実践の場では男性と女性の領域が明確に区切られており、ここにはサラフ的要素が認められると丸山氏は指摘した。
以上から丸山氏は、第二部の報告について、ルカイニーヤ教団においては①タサウウフが完全なムスリムを養成するサラフ(ムスリムの規範)に基づく教育として位置づけられている点、②スーフィズムとサラフィズムは単に関係しているというよりもムスリムへの教育の根拠として相互に依拠し、相補的な関係をとり結んでいること、従って③スーフィー・サラフィー両極の間に位置する保守・穏健という立場よりも、スーフィーとサラフィーを方法論的に混淆させた結果、イスラームの真ん中の、正しい道を歩んでいるという主張の強い点が認められる、ということを指摘して総括した。
以上の丸山氏による報告に対して、フロアーからは①政治的影響力の行使の実例について、すなわち政府から同教団に対して金銭的・人脈的な援助があるのか、あるいは同教団が政府の宗教政策決定に影響を与えることがあるのか、②1993年に開催された国際会議への参加国にはどのような国があり、また会議にどのような反応を示したのか、③なぜ「ムスリム」ではなく「ズィクルの民」という呼称を使うのか、④スーダン南部へのジハードを志向する時、南部に居住するムスリムはどのように位置づけられているのか、⑤ルカイニーヤ教団の規模や同教団に対する他のタリーカからの評価、などについて質問が寄せられた。
これらの質問に対して丸山氏は、①政権から/への金銭的・人脈的な影響関係は今のところ確認されていないこと、②リビヤ、イラク、シリア、ソマリア、ナイジェリアなど周辺のタリーカ組織を有する国々が会議に参加し、2010年にもアルジェリアで会議が開催され、参加国の友好関係を促進する場として同会議が機能していること、③「ズィクル」に対するスーフィーの自負心や、あるいは既にシリアのタリーカで用いられていた「アフル・アル=ズィクル」という用語を借用した可能性があること、④南部ムスリムについては特に言及されず、あくまでも「北:イスラーム⇔南:キリスト教」という大まかな二元論が採用されていること、⑤ルカイニーヤ教団は現在のスーダンにおいてその名前が知られている程度であること、その一方でスーフィズム・タリーカに新しい解釈を施した教団として一部では肯定的に評価され、本や雑誌に取り上げられる機会もあると返答し、活発な議論が展開された。
丸山氏による報告の後、10分程度の休憩をはさんで本SOIAS・KIAS共催ワークショップの総括及び総合討論が行われた。総括は本ワークショップ主催の一人である大阪大学の山根聡教授が口火を切るかたちで始まり、そのなかで山根氏は主に2つの点を指摘した。第1に、本ワークショップで各地域の事例として取り上げられたインドネシアのアフマディーヤ、エジプトのムスリム同胞団、スーダンのルカイニーヤ教団はいずれも19世紀後半から20世紀前半にかけてのほぼ同じ時期に誕生しており、その時代背景として宗教的知識の大衆化・民主化という契機が存在している一方、運動体としてアメーバ状のネットワーク組織を有しているという点である。第2に、以上の時代の通底性にもかかわらず、地域の固有性も一方で厳然として存在しており、それぞれの地域で時代や社会的背景に沿った形で「中道」という理念が創造され、各地域の大衆による合意と承認を得ることで実体を伴った概念となってきた、という点である。山根氏による総括は、「中道」あるいは「中道派」という概念が地域的多様性を抱えており、また同概念が各地域において一般大衆の支持を得ることで初めて有意義な概念として歴史的に構築されてきたという事実の重要性を、改めて想起させるものであった。
以上の山根氏による総括が行われた後、ワークショップは総合討論の時間を迎えた。そこではまず、本ワークショップ主催者の一人である日本大学の粕谷元教授から、中道は概念ではあるが理論ではないとの指摘がなされた。すなわち、中道という概念は時代や地域により可変的であり、普遍的・不変的な理論を構築することは難しいのではないかという問題提起を行ったのである。同時にまた、「中道」という概念が登場してくる背景にはその概念が求められる時代の世相があり、その世相を構成する点として、今日においては①知の大衆化、②急進派の台頭があるということを指摘した。
また、京都大学の今松泰准教授は、各地域における「中道派」概念の形成が、イスラーム史におけるスンナ派形成の過程に酷似しているという点を強調した。すなわち、上述の丸山氏が提起したような現代スーダンにおける中道概念の包括性と排他性は、まさにスンナ派がシーア派に対して示した宗派的立場であり、共同体の維持を主眼とするものであったという。今松氏によるこのような主張に関連して、日本大学の横田貴之准教授からは「中道派」という潮流はいわば地域社会において多数派になるための努力を意味し、つまるところ近現代において思想のマーケットがウマラーから非ウラマーの知識人へ、さらに大衆へと開放される過程で民衆を含めて思想や理念の多数派を決定する社会が到来したのだという論点が提出された。また日本学術振興会の岩坂将充氏からは、スンナ派が共同体の分裂を阻止し社会の統合を維持するために多数の支持を獲得しようとした姿勢は、今日の中道派勢力の姿勢と類比的であるとの指摘がなされた。
他方で、久留米大学の佐々木拓雄准教授からは、「中道派」概念が含意する本質主義的な理解に対する疑義が投げかけられた。これに対して山根氏は、「中道」という概念を社会に誇示し働きかける過程で政治的・経済的な動きが生じており、決して「中道」概念が静態的なものではないと述べる一方、フロアーからは「中道派」よりも「中道化」の方が、地域の変容する過程を描写するための動態的概念としてより適切なのではないか、という提起がなされた。またこれに類してフロアーからは、そもそも「中道」の概念が登場してきた歴史的起源に対する質問も寄せられた。これについては今松氏から、キャーティプ・チェレビーなるオスマン知識人が17世紀に既に『真理の秤』のなかで「中道」という概念について触れており、そこでは「中庸」に基づく社会の安定が目指されていると応答した。
本ワークショップのタイトルに「中道派概念の再考」とあるように、総合討論では「中道」あるいは「中道派」とは何かをめぐって時間の許す限り闊達な議論が展開された。それらの論点は様々に示唆的であったが、報告者にとってはいずれも、「中道派」は概念なのか、あるいは理論なのかという先の粕谷氏の言葉に回収され、帰着する問題系に属するように思われた。すなわち、「理論」というものが普遍的・不変的な事柄を積極的に規定・定式化する学術的営為であるとするならば、「中道=2つの極の間」という現時点での中道派研究会における暫定的な合意は、普遍的・不変的な対象をそれとして直接的かつ積極的に指示しておらず、可変的な事象を間接的あるいは消極的に表現せざるをえないでいるという点において、果たして理論なのかということである。このことはまた、「世俗」にも当て嵌まる問題でもあるように思われる。すなわち、粕谷氏が趣旨説明の場で述べていた「世俗主義あるいは世俗化とは、つまるところ、イスラーム的ではないとしか言い表しようがないイデオロギーあるいは現象であるという言葉に象徴されるように、「世俗=非イスラーム」であって、「世俗」という普遍的・不変的な事象を直接的かつ積極的にとらえきれていない(できない)ということである。こうして、報告者にとっては、「中道」及び「世俗」概念は、いずれも同系列の問題を有し、それへと収斂しているように思われるのである。
近現代の中東・イスラーム世界における「中道」・「中道派」あるいは「世俗主義」・「世俗化」という、歯切れのよい解答を与えることが決して容易ではない問題をめぐり、今後も中道派研究会と世俗主義研究会との間で垣根を越えた連携が図られ、このたびのような合同の研究会が継続的に開催され、様々な立場からの刺激的な意見交換により「中道」「世俗」両概念がともに洗練化・精緻化されていくことを願ってやまない。
第1の目的について、丸山氏はまずスーダンが独立を果たした1956年以降のタリーカと北部政権の関係について歴史的な背景を説明した。そこでは、マフディー系を支持基盤とするウンマ党とハトミー教団を支持基盤とする民主統一党という二大政党を前提に、イスラーム憲章戦線といったイスラーム主義勢力の台頭を受けて、ヌマイリー政権期(1971-1985)には上記二党に対抗する目的でその支持基盤としてハトミー教団以外のタリーカが優遇され、その政治的影響力が増していったことが指摘された。そして1986年4月の選挙でウンマ党が第一党に選出されて第三党の国民イスラーム戦線との結びつきを深めた後、後者が1989年にクーデタを起こして現在にまで至る政権を樹立し、その過程でハトミー教団以外のタリーカと連携を強めていったことが指摘された。
また南部スーダン(現・南スーダン共和国)との関わりに関する歴史的背景の説明の下りでは、アラブ・イスラーム対アフリカ・キリスト教という大まかな南北構図のもとに独立前後から内戦が続けられ、その過程で民族的・宗教的対立を利用した政治的弾圧がおこなわれたこと、また2005年に国民会議党(NCP)とスーダン人民解放運動(SPLM)との間で包括的和平協定が結ばれることで、両者を頂点とする独裁体制と北部におけるイスラームの政治利用が可能になったこと、そして2010年の総選挙では、各タリーカが政権(NCP)を支持する中で北部ではNCPが、南部ではSPLMが勝利を収め、2011年のレファレンダムによって南部独立が確定し、7月9日に南スーダン共和国として独立が達成された経緯を明らかにした。以上から丸山氏は、タリーカが歴史的に政権運営や政党選挙において重要な役割を果たし、現代スーダンの政治動向に密接に結びついている点を指摘した。
第2の目的については、「第一部 現代スーダンにおけるスーフィズム・タリーカとイスラーム主義との関係」と「第二部 タリーカにおける中道概念」の2セクションから考察を行うものであった。第一部では、シャリーア施行に基づきイスラーム国家の建設を目指す現政権のイスラーム主義運動の文脈におけるスーフィズム・タリーカの実像について、ハサン・トゥラービーの『スーダンにおけるイスラーム運動―発展・達成・方法』の丁寧な読解から分析を行った。そこではまず、近代的なイスラーム運動と対置されるかたちでスーフィー・タリーカがサラフィーとともに伝統的セクターに位置づけられ、シャイフへの盲従や過度の儀礼などといった側面がイスラームからの逸脱(ビドア)として否定的に評価される一方、イスラームの普及を促した教育面での役割、自己犠牲の精神を高揚させるといったジハードへの親和性が指摘され、シャリーア施行やイスラーム国家確立=イスラーム運動への貢献が確認され肯定的にも評価されている点が確認された。丸山氏によると、トゥラービーはスーフィズムやタリーカの勢力を一概に否定せず、むしろイスラームの統一やイスラーム運動の強化のために積極的に取り込みを図る対象として位置づけているという。
しかし、この時に取り込みが図られるスーフィズムやタリーカは、ある種の改革を経る必要が求められた。丸山氏はこの点を「タアスィール(ta'sil)」と「ズィクルの民(ahl al-dhikr)」という概念を中心に考察を行った。「タアスィール」は1970年代から登場したスーダンのイスラーム論を包括的に特色づけるキータームであり、クルアーンやスンナに依拠したイスラームへの原点回帰を意味する。そのような原点志向のイスラーム論の台頭を受け、スーフィズムもまた原点に返す必要が説かれ、この時に「ズィクルの民」という概念・用語が導入されたという。「ズィクルの民」とはすなわち神を想起する人々=ムスリムのことである。丸山氏によると、「ズィクルの民」という用語導入の背景には、①救国革命を背景としたイスラーム計画において、ズィクルが精神の治療や浄化の手段として位置づけられ、汚れたイスラームから元の清浄なイスラームへの回帰の象徴として機能すること、②ズィクルという語の使用によって、新旧の区別やイスラーム主義とスーフィズムという区別が無化されること、③ズィクルの民のもとでの連帯が説かれることで、南部に対するジハードへの動員が図られることがあったという。またこの時「ズィクルの民」として想定される人々として、スーフィーやクルアーン学者などズィクルに直接関係のある人々やモスクやハルワの建設に尽力した人々など間接的に関係のある人々が仰がれる一方、ヌマイリーやバシール、トゥラービーといった政治家あるいはイスラーム普及に貢献した人々もまた『ズィクルの民辞典』に登場して「ズィクルの民」に数え上げられるという。
以上のような理念を備える「ズィクル」の民がスーダン政治において具体的に可視化したのが、1993年に開催された「ズィクルとズィクルの民に関する国際会議」と1995年に設置された委員会「ズィクルとズィクルの民国民評議会(al-Majlis al-Qawmi li al-Dhikr wa al-Dhakirin)」である。前者については、クルアーンとスンナに基づきズィクルの重要性を説くという趣旨のもと、イスラーム計画の一環(タアスィールの完遂)、現政権への支持、シャリーア国家建設の希求を国内外へアピールすることを目的に開催されたもので、そこではスーダンにおけるズィクルの民の連帯及び個人→社会→国家という段階主義的なイスラーム運動の政治的方針が確認されたという。他方で後者については、政権に対するスーフィーの支持を集める政治的目的のもとに宗教指導者省管轄下に設置されたもので、そこでは関連する雑誌や本の出版、タリーカへの支援、他国シャイフのスーダン訪問の支援が行われているという。ここで丸山氏によると、「ズィクルとズィクルの民国民評議会」が設置される過程で、「ズィクルの民」の間で団結・連帯を図る第一段階と「キブラの民(ahl al-qibla)」の間で団結・連帯を図る第二段階から構成される二段階論が定式化されたという。第一段階においては南部とのジハードを想定しムスリムとしての団結を説くことで、イスラームと非イスラームとの区別を明確化する一方、第二段階においてはスーフィーを連想しやすいズィクルではなく礼拝と結びつけることで、ムスリム間の差異を最大限まで解消し、イスラームの一体性を強く志向するものであるという。
こうして丸山氏は、第一部について、①ズィクルの民という包括的な概念の導入には、ムスリム内の差異をズィクルの名のもとで解消し、イスラームのもとでの統一を促す意図が認められること、②ズィクルの民からキブラの民へという二段階論の定式化により、ズィクルに起因するスーフィーのニュアンスが消え、イスラーム主義者、スーフィー、サラフィーなどのさまざまな属性を一括することのできる中立的あるいは中道的な概念へと変容し、ムスリムとしての一体性をさらに強調する論理へと展開していった、と報告をまとめた。
続く第二部においては、第一部における議論を前提に、現代スーダンに存在するタリーカであるルカイニーヤ教団を具体的事例として、スーフィーとサラフィーの間で揺れ動くタリーカの中道概念について考察と分析がなされた。ルカイニーヤ教団は正式名称をal-Tariqa al-Qur'aniya al-Sunniya al-Muhammadiya al-Rukayniyaといい、原点回帰の心と再生の精神を結合した中道の方法(manhaj-ha al-wasatiya)をとるスーフィー・サラフィー教団(tariqa sufiya salafiya)を標榜し、自称として「中道」概念を用いる特色を持つ。教団の発祥については、その祖を初代シャイフ、ムハンマド・アフマド・ルカイニー(1887-1964)にもち、同シャイフが1918年6月23日にタリーカを開く許可をアッラーから得ることから始まる。ルカイニーヤ教団誕生の歴史的経緯は、より具体的には、ムハンマド・アフマドが夢の中で直接アッラーとムハンマドからイスラームに関する知識とタリーカ開設の許可を得たことに由来し、ゆえに同師はアッラーが直接選んだシャイフと位置づけられ、同師を頂点とする教団は神が選んだ教団(tariqa ijtiba'iya)とみなされている。そこでは、他のタリーカとの血縁的・道統的な接点はなく、アッラーとムハンマドとの直接的な関係が強調されているという。そしてムハンマド・アフマドを初代として代々シャイフ位が継承され、タリーカの規模も拡大し、1992年には首都ハルツームにもザーウィヤを開設するまでに至っている。
ここで丸山氏は、同教団におけるタサウウフとサラフの関係について考察を試みる。それによると、同教団におけるタサウウフの解釈はその教育的側面が重視され、預言者とその教友を模範としたイスラームの方法に基づいた教育、またサラフの方法に基づく教育が志向され、それらの教育を施されたスーフィーは完全なムスリム(muslim kamil)として認められるという。また丸山氏によると、サラフに沿った教育は内面(dakhil)の教育に特化され、時代により変化する生活様式などの外面(mazhar)よりも重視されており、ここにおいて従来のイスラーム研究で一般的な「サラフィー:外⇔スーフィー:内」という概念図式が転倒しているという。
さらに、丸山氏はルカイニーヤ教団と他のタリーカとの差異について、①ズィクルとファナーの解釈、②預言者との関係、スィルスィラ論、女性の立場、という2つの立場から説明を行った。第1のズィクルとファナーの解釈について、まず前者のズィクルからみると、同教団はクルアーン39章23節を根拠にズィクルの重要性を説く一方、後者のファナーについては、僕が自己の目的を神が求めるものへと置き換える、すなわち自己の目的から神の目的へと脱し、神の目的のみを目指すことと定式化されており、神との合一という伝統的なファナー概念から離れている点が指摘された。同時に、ズィクルやファナーの主体がアッラーに忠実なムスリムであるという倫理的な側面がハディースを基に強調されてもいるという。
第2の預言者との関係、スィルスィラ論、女性の立場については、まず同教団は預言者との直接的な結びつきを強調しており、上述のように初代シャイフは神に選ばれ、ムハンマドから直接知識を与えられたとみなされていることの他、聖者祭は開催せずに預言者生誕祭に集約されること、またスーダンによく見られるドーム型聖者廟(qubba)ではなく墓所(?ar??)がつくられる傾向があることが指摘された。またスィルスィラについては、同教団はそれを必要と認めておらず、あくまでも神や預言者との直接的なつながりのみが強調されてシャイフの一系列を過大評価するものではないことが指摘された。最後に同教団では、宗教実践の場では男性と女性の領域が明確に区切られており、ここにはサラフ的要素が認められると丸山氏は指摘した。
以上から丸山氏は、第二部の報告について、ルカイニーヤ教団においては①タサウウフが完全なムスリムを養成するサラフ(ムスリムの規範)に基づく教育として位置づけられている点、②スーフィズムとサラフィズムは単に関係しているというよりもムスリムへの教育の根拠として相互に依拠し、相補的な関係をとり結んでいること、従って③スーフィー・サラフィー両極の間に位置する保守・穏健という立場よりも、スーフィーとサラフィーを方法論的に混淆させた結果、イスラームの真ん中の、正しい道を歩んでいるという主張の強い点が認められる、ということを指摘して総括した。
以上の丸山氏による報告に対して、フロアーからは①政治的影響力の行使の実例について、すなわち政府から同教団に対して金銭的・人脈的な援助があるのか、あるいは同教団が政府の宗教政策決定に影響を与えることがあるのか、②1993年に開催された国際会議への参加国にはどのような国があり、また会議にどのような反応を示したのか、③なぜ「ムスリム」ではなく「ズィクルの民」という呼称を使うのか、④スーダン南部へのジハードを志向する時、南部に居住するムスリムはどのように位置づけられているのか、⑤ルカイニーヤ教団の規模や同教団に対する他のタリーカからの評価、などについて質問が寄せられた。
これらの質問に対して丸山氏は、①政権から/への金銭的・人脈的な影響関係は今のところ確認されていないこと、②リビヤ、イラク、シリア、ソマリア、ナイジェリアなど周辺のタリーカ組織を有する国々が会議に参加し、2010年にもアルジェリアで会議が開催され、参加国の友好関係を促進する場として同会議が機能していること、③「ズィクル」に対するスーフィーの自負心や、あるいは既にシリアのタリーカで用いられていた「アフル・アル=ズィクル」という用語を借用した可能性があること、④南部ムスリムについては特に言及されず、あくまでも「北:イスラーム⇔南:キリスト教」という大まかな二元論が採用されていること、⑤ルカイニーヤ教団は現在のスーダンにおいてその名前が知られている程度であること、その一方でスーフィズム・タリーカに新しい解釈を施した教団として一部では肯定的に評価され、本や雑誌に取り上げられる機会もあると返答し、活発な議論が展開された。
丸山氏による報告の後、10分程度の休憩をはさんで本SOIAS・KIAS共催ワークショップの総括及び総合討論が行われた。総括は本ワークショップ主催の一人である大阪大学の山根聡教授が口火を切るかたちで始まり、そのなかで山根氏は主に2つの点を指摘した。第1に、本ワークショップで各地域の事例として取り上げられたインドネシアのアフマディーヤ、エジプトのムスリム同胞団、スーダンのルカイニーヤ教団はいずれも19世紀後半から20世紀前半にかけてのほぼ同じ時期に誕生しており、その時代背景として宗教的知識の大衆化・民主化という契機が存在している一方、運動体としてアメーバ状のネットワーク組織を有しているという点である。第2に、以上の時代の通底性にもかかわらず、地域の固有性も一方で厳然として存在しており、それぞれの地域で時代や社会的背景に沿った形で「中道」という理念が創造され、各地域の大衆による合意と承認を得ることで実体を伴った概念となってきた、という点である。山根氏による総括は、「中道」あるいは「中道派」という概念が地域的多様性を抱えており、また同概念が各地域において一般大衆の支持を得ることで初めて有意義な概念として歴史的に構築されてきたという事実の重要性を、改めて想起させるものであった。
以上の山根氏による総括が行われた後、ワークショップは総合討論の時間を迎えた。そこではまず、本ワークショップ主催者の一人である日本大学の粕谷元教授から、中道は概念ではあるが理論ではないとの指摘がなされた。すなわち、中道という概念は時代や地域により可変的であり、普遍的・不変的な理論を構築することは難しいのではないかという問題提起を行ったのである。同時にまた、「中道」という概念が登場してくる背景にはその概念が求められる時代の世相があり、その世相を構成する点として、今日においては①知の大衆化、②急進派の台頭があるということを指摘した。
また、京都大学の今松泰准教授は、各地域における「中道派」概念の形成が、イスラーム史におけるスンナ派形成の過程に酷似しているという点を強調した。すなわち、上述の丸山氏が提起したような現代スーダンにおける中道概念の包括性と排他性は、まさにスンナ派がシーア派に対して示した宗派的立場であり、共同体の維持を主眼とするものであったという。今松氏によるこのような主張に関連して、日本大学の横田貴之准教授からは「中道派」という潮流はいわば地域社会において多数派になるための努力を意味し、つまるところ近現代において思想のマーケットがウマラーから非ウラマーの知識人へ、さらに大衆へと開放される過程で民衆を含めて思想や理念の多数派を決定する社会が到来したのだという論点が提出された。また日本学術振興会の岩坂将充氏からは、スンナ派が共同体の分裂を阻止し社会の統合を維持するために多数の支持を獲得しようとした姿勢は、今日の中道派勢力の姿勢と類比的であるとの指摘がなされた。
他方で、久留米大学の佐々木拓雄准教授からは、「中道派」概念が含意する本質主義的な理解に対する疑義が投げかけられた。これに対して山根氏は、「中道」という概念を社会に誇示し働きかける過程で政治的・経済的な動きが生じており、決して「中道」概念が静態的なものではないと述べる一方、フロアーからは「中道派」よりも「中道化」の方が、地域の変容する過程を描写するための動態的概念としてより適切なのではないか、という提起がなされた。またこれに類してフロアーからは、そもそも「中道」の概念が登場してきた歴史的起源に対する質問も寄せられた。これについては今松氏から、キャーティプ・チェレビーなるオスマン知識人が17世紀に既に『真理の秤』のなかで「中道」という概念について触れており、そこでは「中庸」に基づく社会の安定が目指されていると応答した。
本ワークショップのタイトルに「中道派概念の再考」とあるように、総合討論では「中道」あるいは「中道派」とは何かをめぐって時間の許す限り闊達な議論が展開された。それらの論点は様々に示唆的であったが、報告者にとってはいずれも、「中道派」は概念なのか、あるいは理論なのかという先の粕谷氏の言葉に回収され、帰着する問題系に属するように思われた。すなわち、「理論」というものが普遍的・不変的な事柄を積極的に規定・定式化する学術的営為であるとするならば、「中道=2つの極の間」という現時点での中道派研究会における暫定的な合意は、普遍的・不変的な対象をそれとして直接的かつ積極的に指示しておらず、可変的な事象を間接的あるいは消極的に表現せざるをえないでいるという点において、果たして理論なのかということである。このことはまた、「世俗」にも当て嵌まる問題でもあるように思われる。すなわち、粕谷氏が趣旨説明の場で述べていた「世俗主義あるいは世俗化とは、つまるところ、イスラーム的ではないとしか言い表しようがないイデオロギーあるいは現象であるという言葉に象徴されるように、「世俗=非イスラーム」であって、「世俗」という普遍的・不変的な事象を直接的かつ積極的にとらえきれていない(できない)ということである。こうして、報告者にとっては、「中道」及び「世俗」概念は、いずれも同系列の問題を有し、それへと収斂しているように思われるのである。
近現代の中東・イスラーム世界における「中道」・「中道派」あるいは「世俗主義」・「世俗化」という、歯切れのよい解答を与えることが決して容易ではない問題をめぐり、今後も中道派研究会と世俗主義研究会との間で垣根を越えた連携が図られ、このたびのような合同の研究会が継続的に開催され、様々な立場からの刺激的な意見交換により「中道」「世俗」両概念がともに洗練化・精緻化されていくことを願ってやまない。
文責:平野淳一(日本学術振興会特別研究員(PD))